[1999年08月04日(水)]に書いたものです。昨日の続きです。今、自分ではかなり賢いじゃん、と昔と比較して査定しているのですが、きっと出発点が、あまりにバカすぎたから、という結論に至るような文章になっています(笑)。この格差には驚きです。奇跡と言ってもいいくらいです(汗)。

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小さい頃から私は自分の頭がいいと思えないできた。自分では「これでよし」と思ったことが「なぜ」間違っているのかどうしても飲み込めないでいた。そういう私をかまってくれた人もいたし、まったく無関心な人もいた。

遅いなりともばらばらなりとも読み書きができるようになったのは、私が小学校にあがる数日前だった。近所でなかよしにしていたのんちゃんが自分の名前をひらがなで書けることを母が知り、のんちゃんのママとお話をして、洋裁の型紙に五十音をひらがな・カタカナ・ローマ字できれいに当時同居していた叔父に頼んで書いてもらった。

新しく与えてもらったおもちゃを私は楽しんだ。どんな子どもだってやり方さえその子にぴったりしていればできるもんだ。母は私の好奇心と負けん気を利用して、壁の高いところにそのチャートを張った。母は洋裁用の鯨尺を見せてそのカーブがおもしろいでしょ?などと話したあとに、それがチャートのどこまで届くか壁を利用した。背の低い私は母よりも届かない場所が多かった。つま先立ちをし、ジャンプをし、椅子を使った。

母は届いた場所の文字を大きな声で読んだ。そうしてゲームは始まった。当てることができると、内職台に広げてある扇風機のスイッチボタンをもらえることになる。内職はそのスイッチをパネルにきれいに埋め込むモノだった。3色の色はひらがな・カタカナ・ローマ字とうちわけられた。母よりも少ないスイッチボタン、彩りのないことに腹を立てる。そうして私はどんどん当てずっぽうから始まったゲームを楽しんだ。時には叔父が、時には父が相手をしてくれた。私はまだ3歳の弟にもそれを教えた。ただのまねっこのごっこ遊びだったけれども。

そうして今度は母はトイレと玄関の壁に板を張った。チョークを与え、鯨尺でポイントした字を書けたら今度は酒蓋やビール瓶の蓋をくれた。今度のごほうびは返さなくていいらしい。きれいな箱もくれた。内職の箱に祖母がきれいな紙を貼ってくれた。そのなかに貯めていいらしい。たくさん集めたら自転車を買ってくれると祖母は約束した。

りぼんと書けたときにはりぼんを結んでくれる大人が誰かそこにいて、くつと書けたときにはズックをいっしょに洗ってくれる大人がそこにいた。みんな本気でかまってくれた。たぶん、本気でかまってくれてた。私は少なくともそう思っていた。

小さい「っ」「ゃ」がしばらく書けなかったので、自転車を実際に手に入れたのは小学校に上がって夏休みの前だった。でも青いピカピカしたブリジストンの自転車は私の誇らしい所有物だった。祖母が大きながま口から残金を小銭もあわせて払っていたのをよく憶えている。まだ自転車に乗れなかった私の新しい補助付き自転車を長い坂道をふたりで押して家に帰った。

そのうち、一通り読めるようになった私を内職の忙しい母は放っぽらかした。私は鯨尺を自分で持ち出して、「これは?これは?」としつこかった。ひとり遊びをした。弟も巻き込んだ。読み書きがある程度できるようになった私を他の人たちも興味を示さなくなった。

漢字という邪魔な存在があったにせよ、私はあらゆる活字を読みはじめた。電信柱の看板やお店の看板、新聞の広告、テレビの画面、教科書、本。そしてそれらをまねして板に書き続けた。チョークがなくなると駄菓子やさんに買いに出かけた。

外で遊んでいて「お店やさんごっこ」をしていても、落ちている枝で「おしんこ20えん」と書いたり、陣取りで「あたしの」と書いたり、楽しかった。文字が書けること読めることっていうのは何てすばらしいことなんだろうと、私はおサルのように毎日きゃきゃきゃきゃ笑っていた。

学校の授業がつまらなかったのは、きっと先生やクラスメートが、私の好奇心とシンセサイズしていなかったからだと思う。そして国語でも算数でも社会でも「これでよし」と思ったことは間違いになっていった。「なぜ」なのか教えてくれる本気でかまってくれる人は減っていった。

「なぜなぜなぜ?」と連発する私に、母はある日、子ども向けの百科事典を買ってくれた。あれはきっとローンだったのだと思う。10巻あって6が「動物・植物」で4が「歴史」だった。2つはぼろぼろになった。8が保健で、そのなかの「巨人症」という欄にホルモンのバランスが悪いということと、ジャイアント馬場の写真が載っていたのを今でも憶えている。私が高校生になったときに従兄弟におろした。辞書も父が会社でもらったものを私にくれた。けれども私の「なぜ」に答えてくれる、本気でかまってくれる人はどんどん減っていった。知り合う人は増えるのに、本気でかまってくれる人は不思議と減った。

数字で評価される私のアタマ~模範解答とは違うと言われる国語の解釈、方法が違うと苦笑いされる理科の実験、記憶すればいいと言われる事実を羅列した社会、理由はわからなくていいから計算しろと言われる算数。そうやって私は勉強にだんだん興味が持てなくなり、「勉強しない子」になり、いつしか「勉強があまりできない子」になり、「勉強には向かない子」になった。

高校の授業は朝からお昼までぶっ続けに寝て、お弁当を食べてまた寝た。それでも大学には行くつもりだった。自然と点数が取れる科目だけで受験できる私大を希望せざるを得なくなり、そのために私は平日でも5時間アルバイトした。受験料だけで10万必要だった。私の時給は高校1年で380円で始まり、3年でやっと600円になったところだった。貯金が足りなかったので1年浪人した。けれども大学には入った。意地ばかりが優先した。就職のことがどうしても気になっていた。生涯ウェイトレスをしてもいいと思っていた。それくらい楽しかった。けれども、親や世間はもっと「レベル」が高い職に就きなさいと脅した。学歴が必要だと言った。

いろいろな人が私に「君は自分のアタマのよさを使いきれていない」だの「働く時間を減らしてもっと勉強に時間を費やせば賢くなれる」だの「君はここにいちゃいけない」だの「これが向いているからこれをしなさい」だのと言った。そうだったのだろうか?

本気2

私はずっとずっと「私のアタマ」に本気で対峙してくれる、かまってくれる人が欲しかっただけだったと思う。

手に職をつけるために渡米資金を貯めはじめた私のアタマに本気でかまってくれた人は、1時間かけて「金魚花火はなぜ水中で燃えるのか?」を説明してくれた。渡米してロクに英語でコミュニケーションが取れない私に本気でかまってくれた最初の英語の先生 Mary は、なぜ日本人である私がピアスの穴を2個づつあけたのかその歴史を聞いてくれて、自分のピアスについて3日かけて説明してくれた(今はピアスの穴3個ずつあります☆)。航空学校の教官はなぜ私が「書いてあるモノは理解しやすい」のに「無線や話し言葉に弱い」のか尋ね、私の問題解決のために延々とチャージなしでつきあってくれた(教官は1時間いくらで教えます)。

パートナーに逢って私は多くの「なぜ」を充たされ続けてきた。本やメディアでなく、生きたアタマのいい人間から、心入りで教わることで、私のアタマも心も充たされた。そして、私は、重い重い腰を上げて、30歳で大学に戻った。私のアタマを本気で扱ってくれる人がいることを祈りながら。

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私と同じように感じている人々に、日本に戻って英語スクールをし始めてからたくさん出遭いました。30歳からこっち、私の脳は右肩上がりで、今では「勉強以外向いていることはないんだよね・・・(汗)」というくらい、小説とテキストを半分ずつほど読んでいます。ひとり漢字テストや、何分で計算できるか、パズルや習字、などなどまだしつこくやっています(汗)。家事や事務仕事はキリがないと思うのに、学問については思わない(笑)。なぜなんだかここのところをきちんと考えないといけないです。けれども、私は「なぜ?」に支えられているので、コレでいいのだ!

が、本日も明日もこれまで通り、私のように迷っていた人たちに、本気で対峙して英語を中心にいろいろ教えています。社会も国語も数学も物理も生物も教えているので、時々本業が何なのかわからなくなります(笑)。とはいえ、心持ちをもっと科学したい方、深く知りたい方はぜひいらしてくださいね。