[1999年08月07日(土)]に書いた文章です。

理解し、される瞬間というのがとても少ないと考えるのは悲観的に過ぎるでしょうか?

乳児の頃の記憶は残念ながらありませんが、3歳後半くらいからある記憶のカケラのなかの強烈な感情と同質のモノを、32年経った今でも味わっていると感じる私です。時折、胎児から産道を通ってきた記憶まである人がいるという話や記事を読むと「いいなぁ」と羨ましくなってしまいます。

その自分の感情にさえ「これだっ!」という明確なモノがないのに、他人の感情などは地球と冥王星くらい遠いことでしょう。それでも、こう、奇跡のように「わかりあえる瞬間」を何度か目撃し、体験しています。1mmの隙間さえないほどのぴったりした感覚、あの揺蕩うなかでの手探りに時間さえ停まってしまうあの瞬間。並みの「でしょうぉぉぉ?」ではなく、魂が真空に囚われてしまったような感じ。

理解熱望

技術者や芸術家と作品のあいだにはそういう「神が降りる瞬間」がままあると言いますが、人間同士だとなかなか難しいもんでは?と感じてます。

でもこれに限りなく近い瞬間をたくさん暖めて、私はこれまで熱望しすぎるほどに数を撃ってやってきました。もちろんおつきあいしてくれた人の努力や熱意も並み大抵のもんじゃないです。感謝の毎日です。

だから私は理解できたら幸運だなぁと思うし、理解されなくても割と当たり前じゃないかと思っているのです。だからと言って理解されないように謎の暗号を発してるわけではなく、誠意を込めてその場・その時・その話題・その人に自分なりになるべくぴったりとしたモノを選ぶように努力をしています。

が、私はこれまでかつて自分が言いたいことを100%言えたことは一度もないです。ただの一度も。あの不思議フシギのわかりあえる瞬間というのには、私の言語操作技術はあまり貢献していないものです。道具として、風景や本や相手の体験やジェスチャーやいろいろが混ざって、それでようやく1億のトライに一度か、もっと少ない割合で起きるのですね、これ。

長くおつきあいするとわかりあえる完全なる瞬間に近いモノが増えてきます。それで怠慢しちゃうこともよくあって、最近は「あれこれそれ」という指示代名詞攻撃が身についてます。

みんな特別でユニークな存在だから、体験や視点やモノの考え方も違って当たり前で、そのなかでわかりあえちゃうのってすごいでしょ?なぁなぁではなくて、そこそこわかりあえてしまうのってすごいヨロコビだと思うのです。

でもやっぱり摩擦は起こる。私はかなり難しいことを言いたくてトライし続けて諦めない人だから、混乱ばかりさせて申し訳ないって感じです。

よく聞かれます、なぜ私がまんべんなく伝えたり説明しようとするのか。「エナジーの無駄じゃないのか?」「しつこくして憎まれたり疎まれたり嫌われたりして哀しくないのか?」と。ん、いいのです。哀しいけどそれもトライした証拠だし、自分が自分でいるために必要なことで、相手に切られちゃうまでは続けていくのです。迷惑だと言えない雰囲気を作っていると最後通牒を出されるまで。

人間は必ず変化します。この世には変化しないモノのほうが少ないです。だから変わらない愛や変わらない風景は尊く残ります。私は気が短いと自分で公言していますが、実はとても気が長い一面もあるのです。

私を理解したくない人・私が理解できない人に対して、私がどう評価されてもかまわないのは、「私のほうから降りることだけはしたくない」というのがあって、おつきあいしているその時にわかってもらおうなんて甘いことは考えていません。

「私という人間の魂がどんな形であれ続いていくのならば、時間が経って死んでもエナジー循環のなかに混ざりたい、参加したい、できるならポジティブな気持で」というのがあります。もちろんこれも仮説です。死んでしまったらもう何も残らないって信じる人もいるけれど、私はこんだけの喜怒哀楽や学習やいろいろが残らないのはちょっと救われないなぁと思うのです。何も輪廻転生じゃなくてもいいんだけれども(動物や人間に再び生まれ変わる)何かのエナジーになって存続していきたいとは思うのですね。それが誰かの心のなかであってもいいし。

人類だけでなく、宇宙のエナジーそのものが、学習や陶汰や進歩や退化の入り混じりにどんどん変化していくなかで、私はそれに少しでも参加したい。今私が誰かに伝えていることが(言葉であろうがバイブレーションであろうがジェスチャーであろうが)歳月を超えて生命体を超えて普遍性があるといいな、と願っているので、別段何人かの個人に今わかってもらわなくてもいいのです。

その普遍的な物事・時空を超えてもそこに絶対に存在する価値のあるモノを捉えたいという気力があります。みんなそうだと思うんです。なぜ自分がここに生きているのか考えたことあるでしょ?自分はどこから来てどこに行くんだろうってこと。

もしも生命連鎖が続くわけなんかないと考えて「生きているうちに楽しいことしなくちゃ損☆」って言うならば、それも刹那的でいいですね。私たち人類は少なくとも数万年前からの地球の実態がわかっており、数千年前からの言語なり生活実態なり人間が何を考えてきたかもわかる科学を持ち得るようになってきたわけで、それならば、少なくとも数千年続くだろう先のことくらいは、考えてみたいなと私は思います。私が私として生きた証のために時空を超えられるモノを望むのは悪くないな、と思うのです。

だから焦らないあせらない。日常の煩雑さやいらいらや感情に負けてしょっちゅう嘆き悲しんだりもするけれど、悪態ついて「もうこんなのやめてやるぅ!」とも思うけど、平常心に戻るといつも「こんな大きなプロジェクトなんだから、挫折して当たり前だ」と私は想っています。だから私を気に留めない人がいても、理解をギブアップした人がいてもだいじょうぶ☆

私だけは誰も見棄てない。私をみごとに切った人もいます。つらそうだったので切ってくださいと私からお願いした人もいます。けれど、私はいつもいつもその人たちのしあわせやヨロコビも願っています。今日もどうやって伝えようか受け取ろうかとアタマをぎりぎり絞って考えます。アタマでっかちになりすぎたり、感情にふりまわされたりしながら、この試行錯誤はずっとずっと永久に続いていくのです、みんな同じ船に乗っているとなぜか信じて。