Sep 29, 2005 Precious One English Schoolに来る生徒さんは、この比較をしてしまうことや、多数決にどっぷり浸かっていることのほうが多いです。いや、日本全体の問題点なのかもしれません。真の資本主義や民主主義から、少しズレています。

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ヒトが比較をしてしまうのはなぜなのか、真剣に考えてみたことはあるでしょうか?これにはいいも悪いもありません。ある比較は、しないほうがラクで、あまり心に負担がかからない、というお話です。

ヒトは社会生活の混沌さを法則的に、さらにラクにするために、いろいろなことを比較・分類して、差異や同義をバロメータにしながら暮らしています。大きく分けると、男女・年齢・学歴・出身地・あらゆる能力・宗教観・専門分野・政治的意識などなど、数え切れないほどの違いがあり、それらを細部まで見ていくことは、至難の業です。混沌すぎる世の中の現象や、それによる近い将来の予測をするために、ヒトは比較を用います。

たとえば、通勤風景。たくさんの知らない人たちを信頼して、流れに沿った動きを自分がすること。これも比較からの察知です。100人いる中で、ひとりやふたりが反対方向に動いていたとして、その人を追いかけると、自分に負担がかかります。避ける労力がかかってしまうし、進むスピードが鈍くなるチャンスが大きくなります。

もう少し長いスパンで行くと、毎日食べている食べ物。五穀米が身体にいいとなると、過去のデータにより、精米よりもぐんとビタミン・ミネラルが多いという導きをし、炊く分すべてではおいしくはないので、10%から100%のあいだで自分なりの量を決めます。これは、精米と五穀米の比較で、人ではありません。そして、人と比較する場合には、食べてきた人と食べていない人の健康を比較したり、自分が食べてみての健康度合いなどを、時間をかけて比較します。それにより、大した効果がなければ、やめてしまう人も出るし、続ける人も出ます。

毎日の暮らしを賢く生きていくためには、比較はとても大切です。が、これを他人や自分の査定に使うのは、心にとてもストレスがかかることです。上記のような、「混沌さを整理する」「近い将来を予測する」以外の目的で使うと、パワーゲームの『優越感と劣等感』に繋がるわけです。この基本的法則がつかめておらず、この比較を人の査定に転用し、細部まで見ていく熱意がない人々は、比較はしないほうがラクで、自分の心に負担がかからないし、他人を大きく傷つけることもなくなります。

他人を評価するのに、「きれい」を使う人がいますが、このきれいは曲者です。美意識のメカニズムを、生活基盤のための比較にすると、とても単純で;
1.自己の存在に危機が及ばない;五感(見る・聞く・触れる・匂う・味わう)にとって不利益なもの・圧迫感や攻撃性があるものを負担とし、それらを避ける。
2.自己の存在を環境に順化させやすいものを選ぶ;上記の1.の最低ルールだけではなく、自分の五感に有益なものを取り入れようとする。
この2つが単純なルールなのですが、ここからがどんどん複雑化します。

3.自己だけではなく、ごく近い環境にいる人々の意見や傾向と自分のそれを比較し、それに沿うようにさらに順化する→社会適応性として取り入れ、暮らしやすいようにする。
「あの人きれいだよねぇ」
「うんうん」
思っていても思っていなくても、そう答えたことは何度かあるはずです。「きれい」以外の他の分野で、その個人との衝突・摩擦を避けるために相手の比較を取り入れた形にします。ここで、自分がきれいだと思っていない場合、心に負担がかかります。世の中で言うストレスです。嘘なのか、気がないから譲れてしまうのか、特に大きな問題ではないからどうでもいいのか、直面したときにここをわかっていないと、あとでストレスがストレスを生むことになっていきます。「きれい=正しい」という評価は、生命体のバロメータになっています。鳥でも美しい色彩であれば、生物学的に生き延びるチャンスが増える、正しいあり方なのです(当然それにはリスクもあるのですが)。誰か第三者をきれいと決めることは、そのあり方を肯定し、さらに高い評価をしていることになるのです。なので、ここで自分の意見ではないのに譲ってしまうと、相手の話し方に明確さがない場合、その対象全体をとてもポジティブに捉えてしまうことになり、あとから再びそのしっぺ返しが来ることになることがあります。
「顔やスタイルはきれいだけど、彼女の話し方や政治活動は好きじゃない。なぜなら・・・」などと言えれば、あとからのストレスになる原因にはなりません。

4.自己が直接つきあっている人を査定対象とし、関係の距離を明確にする。
「私、きれいって言われたことないんだよね」
「ええええ、きれいだよー」
この会話で、相手を好んでおり、評価が高いことをすでに伝えています。なぜなら、生命体の90%以上が、「きれい=正しい」に即して暮らしているからです。特別に、「私は変わり者で美意識が曲がっているから、きれいな人が好きではない」と言っておかないと、9割以上の人々は、好感とみなします。親近感が生まれ、距離感が縮まっていきます。それに準じている場合はいいのですが、勝手に誤解されることを発したことはないでしょうか?これに気をつけなければ、あとからの数倍ものストレスを引き受けなければならないことになります。

5.自己を査定対象とし、他人との関係を調整する。
「私ってよくきれいって言われるんだ。でもそんなこと自分ではまったく思ってないの」
「えええ、すごいきれいだよ。ほんとうらやましい」
この会話は、自分の位置を相手にわからせるための作為的行為です。作為的でなくとも、幼い頃からの周囲のちやほやが過ぎて、無意識にしている人々はたまにいます。学歴や何かの能力などでも同じことで、自分をアピールし、相手にそれを納得させるため、自分のパワーを増やすための比較メカニズムです。あるいは、簡単に他の人のパワーを減らしているとも言い換えられます。この時点で、自分は相手よりきれいということになってしまっています。こういう会話は曲者で、今後の距離感や位置関係を明確にしてしまうストレスの原因です。

説明しやすかったので「きれい」を使いましたが、どんなものでも同じです。ピアノの上手さでも、漢字ドリルでも、学歴でも、髪の多さや質でも、事実を事実として語らず、他人と比較する会話をすると、このようなメカニズムに知らないうちにはまってしまい、パワーゲームに参加していることになってしまいます。自分を「きれい」にキープするために、他人を傷つけたり、下にしたりというのは、私にはあまりいただけない行為です。その後、ラクになるからストレスはたまらない!という確信があればやっていってください。が、映画Spidermanにあったように、Great power comes with responsibility (偉大な力は責任を伴う)ですからね。

誰かの個人査定をする場合、どこに位置しているのかを特に明確にする必要がある場合、というのはとても少ないです。しかも、その査定が正確であることはさらに少ないです。なので、私はストレスをみんなにまきたくないし、自分に戻ってくるのもつらすぎるしバカらしいので、こんな会話はしません。芸能人などに「きれいだよねぇ」と言っても、「んま、個人的に知り合いじゃないから、きれいなだけかもしれないし、わかんないよね」ってなことで終わらせています。

私は、個人的に近い人で、査定を相手が求めている場合は、脳みそに詰まっている知識を駆使して、なるべく正確に査定します。でないともしも悲しみが生じてしまったら、彼や彼女の悲しみに対して責任が取れませんから。

意識していなかった、比較のパワーゲーム、やってましたか?褒めるならば、本当に褒めましょう。ロクに見てもいない人に褒められてうれしい人はそんなにいないはずです。他人だけでなく、自分の心の負担が少なくなるよう、賢く生きてください。

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Precious One English Schoolの英文法では、形容詞・副詞と、比較を分けています。レッスン数において3つほど間隔を開けます。でないと浸透しない考え方がけっこうあるからなのです。が、中高では、そうでもなかったような…と思い出していただいています。比較に関しては楽しいレッスンのはずなのですが、文化を引きずる典型的な英文法ですね。

 

hikaku3 絶滅動物