2006年頃に書いた文章です:

自己紹介にも書きましたが、US暮らしは足掛け18年目になりました。そのわりには日本語をちゃんとキープしてるでしょ?(笑)それも10年前ほどに出会ったネットのおかげです。テクノロジーに感謝♪

幼い頃から、私はどうも日本社会の中で暮らすことに向いていない、と感じてきました。よそに住んだことがないのにどうしてそう感じることができたのか?とても窮屈だったことや、まだ口も利けない頃にお友達だった、Mike & Naomi兄妹が近所にいたこともあるのと、9歳頃に川原で石投げをしていたときに出会った華僑のおじさんと話しこむようになったことがきっかけだったと思います。さらに、図書の時間に読んでいた数々の伝記や、カタカナの名前を持つ主人公の絵本や小説。

ただ、私の育った家は戦後ずいぶん時間が経っていたにもかかわらず、たいへん貧乏でした。父の給料日前10日ほどは、お米が米びつにないのです。雑炊にして増やして食べたり、お芋類を主食にしたり、母は戦中戦後さながらのメニューをよく出したものです。新興住宅地で新築建売が乱立し始めた同級生のお家の事情と比べては、ため息をついたものです。文具もおやつも着ている洋服も、比べることに意味がないことを悟ったのは、かなり幼年期であった記憶があります。

早く家を出たいという反発と、両親に感謝を深く持つという愛情に挟まれ、それでも生涯生きていくためには、何とか稼げる手に職を持ちたいと願ったものでした。

高校をアルバイトしながら出たあと、1年浪人をして大学に入りましたが、そこでも生活そのものは仕事ばかりでした。ウェイトレスは今でも自分の天職なのではないか?と信じたいところです。教師になろうと思っていたのですが、日教組を含む、政治的システムに嫌気がさし、留学を決意して、大学もすんなり中退しました。2年半で600万(1980年代当時)貯めて、手に職をつけるためにUSに渡りました。まだ健在だった父は近所の中華料理やに40人もの人を集め、送別会をし、涙目で、『故郷に錦を飾るまでは戻ってくるな』と言いました。こんなに長くなってしまうとは…。

USに渡って、回りがHomesickにあえいでいる中、私は一度もホームシックらしいものに生活のリズムを壊されたことがありません。英語ができるようになったと感じるたびに、どんどん自由を獲得していきました。いくつか手に職もつけ、他人にはしょっちゅう「もうアメリカ人だね」と言われながらも、やはり日本に住むために戻る揺るぎなき理由を見つけられないでいます。

海外暮らしを始める理由は山ほどあったのに、戻る理由がなかなか見つからない。死ぬまで日本人であることは動かしようのない事実ですが、この決断は今でもとてもよいものだったと確信しています。私はここではナニジンであるかを強くいつも感じさせられないで済み、自分の言動に責任さえ持てば、好きなことを、回りを気にせずすることができます。

『出た杭は打たれる』かもしれませんが、『出すぎた杭は打ちにくい』を、日本に帰るたびに感じています。もう引っ込めませんね…。

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そしてこんな私に日本に帰ることを決意させたのは、他人も眼を瞠るほどの健康でした。計画としては、70歳くらいで死にたかったのですが、父が54歳で亡くなったのでその方向で考えていたのですが、母がピンピンしているためと、まったく老化のスピードが遅いため、計画よりも「お金がかかる」ということが判明したことです。

USやその他外国に長く住みたいのであれば、経済基盤をもっと中規模なものにしないといかん!と一念発起して戻ってきました。1年でも早くUSに一旦戻り、また大学に通いたいです。最近では、死ぬのはアフリカがいいかな、と思い始めています。時代は変わるもの。フットワークが軽いままでいるために、清貧も大切ではありますが、多少のお金は必要なことが、ナマミゆえに痛いところです(汗)。

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