2002年に書いた文章です。

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DV:Domestic Violence(家庭内暴力)という略語が日本でも通用するようになってきました。私は2~4日に一度以上は殴られて育ちました。が、そのことについて、特にうらみや憎しみはカケラもありません。時代という大きな器のなかで、私の父や母にできたことはアレだったのでしょう。受け取る私がこう思えるようになったのですが、弟は実の子どもたちを殴ります。それは、彼と彼の妻の教育方針とか躾や世界観なのでしょうが、私はイマドキの事情で、暴力で物事を解決するのは大反対です。が、彼らのチョイスに関しては尊重しますし、私は自分の意見はすでに伝えてあります。私の姪っ子たちが強い子どもたちであることを祈るばかりです。

私が、殴られたことで学んだことはプロセス的・段階的な理解です。勉強も同じなので教育や躾もそれでいい、という人がいるのでしょうが、痛い想いのリソース・根源は、親や目上の人からの暴力でなくても、まったく他のSubstitute(代理・代替)があると信じているので、すり替え問題になる言い訳にしてほしくはないです。

私は自分が殴られるようになってから、弟をつねったり叩いたりする両親の真似っこをしました。が、すぐに咎められ、さらに暴力で抑え付けられ、弟に暴力を振るえなくなりました。理不尽さが後味悪く残っているのは、今の日々のニュースで、暴力事件を見るたびに残る苦さと同じです。なぜ、誰かは正当化できて、誰かが正当化できないのか、いつならよくて、いつはダメなのか、考えるようになりました。私の暴力に関する例外は、ただひとつです。

相手が生命や健康の危機に面しているときのみ、暴力を振るってしまうリアクションはかまわない、とする、です。子どもがストーブに手を近づけたときなど、言ってわからないどころか、リアクションタイムがまったくありません。車が行きかう道路でも同じです。タバコの吸殻を食べてしまいそうになることや、アルコールが目の前にあることなど、あとから取り返しがつかないかもしれないことに関して、問題が、生命の危機や、健康を害することに関しては、凛とした態度で、あとから暴力的だと思えることもしなければならないときはあります。相手が大人であっても同じで、転びそうになったときにもしかすると暴力的な強引さで引きずることや、暴力を振るわれている誰かを守るために暴力を仕方なく使わなければならないことがあるかもしれません。それらだけが、私にとっては例外で、他の暴力はどう説明されても、正当化できるようには思えないです。

それから、もうひとつ、最初の暴力(エピソード;1回だけではなく数日か数週間の山があるかもしれません)に関しては、私は見逃すことにしています。何度も何度も繰り返す大人の暴力は、特に弱者に向けての暴力は、お話にならないので、本人が直す気持ちになる準備ができなければ、被害者になる前に消えるしかないでしょう。

自分が暴力を振るう相手を見極められないうちに、親が見ていない子ども同士の遊びで、何度か友だちを叩いたことがあります。どうしても一線を越えてはいけないルール違反をしたときの罰でした。相手が自分がやる前に納得したことだったので、イヤイヤながら納得して受けた体罰でしたが、後味はいいものではなく、関係が修復するのにとてつもない時間がかかったので、それを学ぶためには大きな代償を支払った気分でした。

次にやったのが、自分の木登り用だと宣言していた木(みんながそれぞれ持っていた)に断りなしに登られ、上から揶揄され、勝気だった私は、すぐさま登って行って、その男の子を突き落としました。「降りてよ!どうして聞いてくれないの?自分の木に登られたらすごくイヤでしょ?」とやり取りはしたのですが、しつこかったのです。だからと言って、突き落としていいわけがありません。裏目に出て、その子たちの嫌がらせは膨らんでいきました。

そして次の暴力が、何度言葉で説明してもわかってくれないいたずらな男の子たちを、自転車ごとはまる落とし穴を作って怪我をさせたことです。縁を切ってかまわないと思っていたので、むしろ、相手がしつこくいたずらや嫌がらせをするので、相手にあきらめてもらいたいと思い、みんなで数時間かけて穴を掘り、ごみを入れ、水を注ぎ、穴をかぶせました。案の定、私の家にその男の子のうちのひとりの母親がやってきて、私は3時間も説教されました。正当化できないことだと今は思いますが、愚かだった子どもの頃の笑い話にはなります。

私は、親に21歳まで殴られましたが、その間他の誰かに殴られた記憶はありません。教師が他の誰かを殴っているのは何度も見ましたが、いつもざわざわした気持ちが渦のように巻き起こり、とてもイヤな気持ちになったものです。

暴力による体罰というプロセスがないと、人は学べないものなのでしょうか?地震や津波やハリケーンに邂逅しなければ、人は物事の理を自分の行動に反映できないものなのでしょうか?大切な誰かが殺されない限りは、死について学べないものなのでしょうか?愛する人がレイプされなければ、性的領域を侵すレイプについて学べないものなのでしょうか?半身不随になり車椅子に乗る生活をしなければ、全盲の生活をしなければ、他人の痛みを学べないものなのでしょうか?否です。否であることを選べるようになったほうがいいのです。

心理学の文献でも、必ずしも体罰を受けていたからといっていい子になるどころか、むしろ6割半は自分ののちの家族に暴力を振るうようになります。連続殺人者でも、統計が取れている確実なものは、性的コントロールが利かず、暴力へとなぜか昇華を求めていくことのプロセスだけが取れています。暴力を振るう人間は、暴力を振るわれた人の気持ちがわかるのだろうか?暴力だけではなく、ここが問題点で、暴力による体罰を代替する方法はいくらでもあります。

暴力を振るうプロセス、その感情的なコントロールし難いものを、時間が経過してから正当化する癖、正当化がまるで人格や世界観のようになっていることに気づけること。がゆえに、そんな人格や世界観は、ただの感情に毛が生えたものでしかなく、聞いていていかにも論理的なようだが、実はまったく論理が通ってないことに気づいてほしいです。暴力は、最も簡単でお手軽な、パワーゲームのひとつです。自分の裡にあるパワーを、なぜ、誰かを傷つけるために使うのか?まずはそこから考えてもらいたいものです。

私は暴力の現場には、損得勘定なしで介入します。結果として自分がフィジカルに傷ついても、自尊心が傷つかないことを選びます。

今日、チャットをしてて、「うーん、長年勉強してると読むスピードも書くスピードもすげぇ速くなってるんだろうなぁ」と、改めて気づかされました。私は日本語をタイプするよりも、英語で書き物をしたほうが速いです。なぜなら、変換が圧倒的に少ないし、読みがバラバラな漢字をあてはめるために調べ物をしなくて済んでしまうからです。英語だとスペルチェッカーがあるからラクすぎ(笑)。

そういうわけで、自分が勉強の本質をわからないまま、勉強が嫌いだと思っていた方々、ぜひ勉強してみてください。お子さんをお持ちの方は、机の上の勉強は無理やりさせないで、参加型の話し合いをたくさん持ってくださいね。

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bouryoku

Posted @ QUOTEZ.CO

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bouryoku3

情けないことにこの最後の〆がなぜこうなっているのか、今、まったく記憶に呼び起こせず、なにゆえか強引に、「学ぶプロセス」について暴力を例に出しているのだな、ということしか読めません。なんと拙い文章構成なのか、と呆れますが、このまま載せます。暴力を振るわれる人たちが減りますように、と願う気持は未だ変わらず、せっかく言葉を持っているのだから、それをフルに使える知性を駆使してください、と願うばかりです。