[1999年08月13日(金)] に書いた文章です:

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これねぇ、困るんですよね。私は好き嫌いの順番・優先順位っていうのがなかなかつけられないヤツです。嫌いなコトっていうのはたくさんありますが、「せねばなるまい」と思えばしますしねぇ。まぁ、嫌いなコトを後回しにするのも先にやるのも体力次第ってところはありますが、大体は「合理性」「能率性」で決めることにしています。そうすればコトに対するひいきもあんまりないかな、と。

闘病していると普段はちょちょちょいってできるのにできないことが増えます。重い荷物を持ったり走ったりできません。外に滅多に出れないのでシャワーなんかも2日に一度でいいです>北カリフォルニアのこのへんは平均して暑くない。それに無駄な動きをするとつい無理な動きに変わってしまうことがあって、それを避けるためにも目下じっとしてるのがいちばんです。

テニスをやるようになって気づいたのですが、私はボールを拾うときに膝を曲げないのですね。きちんとそういう習慣をつけてこなかった。身体がめちゃくちゃ柔らかいのです。前屈はマイナス25cmくらい曲げられます(床に手がつくではなくて、ベッドの上に上がってそれでも手がマイナス位置になる)。だから無理な動きをしていると意識できなかったわけです。ヘルニアをやって(本屋さんの高い棚から本を取ろうとして高さ1,5mくらいの位置から落下しました)、交通事故で座骨神経がイカれて、初めてわかる無理な動きの数々・・・。

と言うわけで、今の私には合理性・能率性を追求して考えると、やらなくていいこともたくさんあります。好きであってもやっちゃいけないこともたくさんあります。だから「していい」「できる」ことが基準になっていて、それを今回またまた深く考えて、好き嫌いで物事をやるとかってあんまりいいことじゃないかもしれないと思います。

そりゃスポーツにしたって好きなこと・興味のあることをしたほうが早く上手にはなるけれども、できたらなるべく多くから選べたほうがおもしろいし可能性も広がるので、やっぱり好き嫌いではなくて、普段から興味の持てること・守備範囲は広いほうがいいな、と思うわけです。

私はカニが大好きです。カニ食いサルです。毎日食べてもいいくらい好きです。
私はタンゴが好きです。アルゼンチンタンゴのバンドネオンを聴いただけで涙がぽろぽろ頬を伝います。
私は映画を見るのが好きです。1日に8本見た記録があります。飽きません。

けれど、この3つのなかで順位をつけろと言われても困ります。ジャンルが違います。

小さい頃に「おとうさんとおかあさん、どっちが好き?」という質問が園児のあいだで流行りました。それは小学生になっても中学生になっても高校生になっても社会人になってもたまに登場し、そして未だに聞かれる質問です。確かに身近にいる大人・親という社会的役割を持っているという点では共通点がありますが、この質問は本当に Ridiculous (おかしい、ばかげた、滑稽な、途方もない)だと思います。

うちにはネコが3人いますが、そのなかで好き嫌いの順位をつけろというのと同じくらい残酷な質問です。みなそれぞれ同じネコというジャンルで家に住んでいますが、特別でユニークで、私にとってもたいへんな心の支えです。もしもひとりだけ神の怒りに触れるからと、生け贄に出さなければいけないのならば、私がネコのふりをして火山のふもとまで行きます。それからインディ・ジョーンズみたいに闘います。みんなかけがえがありません。お友だちのおうちのJasmineであろうがまだ見ぬ新しいネコちゃんであろうが、うどちゃんの宿敵クロネコちゃんであろうが、きっと同じことをすると思います、私。

ひとつひとつの生命はそこにあるだけで、ほんとにほんとに大切です。それに順番なんかつけないで、ひとつひとつを心から愛でることが自然なことなのに、どうして優先順位をつけちゃうのかな、と私は思います。

大人になって時と場合と用途による使い分けと、なんていう技術を身につけて、それに伴って人間や他の生命までもその対象にするのっていいのかな、と謎に思います。

私、Being (存在)はまるごと受け止めます。あなたもあなたも西さんもネコたちも留学生もです。みんなが好きです。けれど、嫌いなところがあります。だからと言って好きであることには何ら変りはないし、その一点や二点の嫌いさでその存在そのものを否定するほどに嫌いなんかにはなりません。この世には完璧なものなんかありゃしません。

仲のよさや好きさ加減に順位をつけたくはないです。たくさんの時間を過ごしているから仲がいい、という定義でもないですしね。年齢が近いから、同じような体験をしているから、環境が似ているから、同じことに興味があるから、などなどいろいろな理由があるんでしょうが、私はそういうことはあんま関係ないです。そういうことを理由にしていて人生順調に行って、定年にでもなって豪勢に世界一周旅行の船旅に出て遭難し、どこか電話もない、通訳もいない、異文化に遭遇したときに困りますね。食べ物も手に入れられないかもしれないですね。

嫌いな部分の理由が「他の人間をないがしろにする」ものであるとちょっとこだわっちゃいます。食い下がって質問しまくってしまいます。それは簡単に言うと「自分がやられたくないことは他人にもしないこと」というシンプルな言葉を心底理解してもらいたいな、ということで、誰かの好き嫌いで、誰かがないがしろにされるようなことがあっちゃいけないと思っています。

私はそういうことをされて悲しかったことが何度もあります。理由を聞いても「ん?とにかく嫌いなのよ」「感性だから仕方ないじゃない?」とか「あなたは私とは違うから理解できないから」とかだったり、何かさみしいです。相手はそのいくつかの不快な点だけで他をもう見ることを拒絶しちゃうのですね。

なので私は好き嫌いの順番はつけたくありません。自分がそのカテゴリーに入れられてあっさりと切り棄てられたら嫌です。価値観は違って当たり前だし、嫌いなモノもきっとあるでしょうし、嫌いな部分を持つ人もいるでしょう。

でも存在そのものを否定しないであげてくださいね。明日はあなたの大切な人が同じめに遭いお家に泣いて帰ってきたり、電話をしてきたりするかもしれません。ヘビだってかわいいもんです。今度嫌いなモノや、人の嫌いな部分を目撃したら理由を考えてみてやってください。ついでに好きな理由も考えてみてやってください。

そうして人間は自分をシェイプして、子どもの頃にはなかった嫌いなモノや不快なモノを増やしてきた自分を顧みて、それらを少しづつ減らして、心に静かさや穏やかさや屈託のなさを戻していけるもんじゃないのか、と思います。

私はそれゆえ嫌いなところがあろうが多かろうが、私はその存在そのものが嫌いなわけじゃないので態度も変えません。これは信用してもらっていいです。あ、別段強要するもんでもないですが・・・。

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好き嫌いだけで行動はあまりしなくなりましたが、それにあまりに論理をつけて人を負かせようとも思わなくなっているので、どうでもいいことなのか?とも思います。ただ、暮らしていく中で、選択肢のズームインが簡単にできるようにはなるので、かなり効率はよくなっていると思えます。ヒトではなく、行動でもなく、事実をなるべく見るようにして、そこを出発点とすることで、好き嫌いは格段に減りましたね。

とはいえ、私はたらこ以外の魚卵が今も食べられません(汗)。

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