[1999年08月15日(日)]に書いた文章です。

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この言葉を私はいろいろな人から聞いてきました。「どうしてそんなに突っ張ってるの?」「どうしてお互いが不愉快になるのに、わざわざ相手を変えようとするの?」と。何を基準にして物事を捉えるのかは個人の価値観ですが、私が人とおつきあいするのでベースにしているのは、「本人が何をどのような動機で望むか」なので、いつもその点にこだわるようにしています。

でも人間は完璧じゃないし、物事は複雑だし、疲れていて話し合いができないこともままあるし、この「本人が何をどのような動機で望むか」が曇ってしまうことがままあります。「ねね、あなたの言ったりやったりしていることってば、矛盾してると思うわよ」と言い切れないままに、いつしか譲歩や思いやりや我慢が重なっていき、愛にあふれているはずの自分がどんどんドアマット(踏みつけられて汚れをなすりつけられる)になっているような気持になります。

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「疲れているのはあなただけじゃないわよ」「忙しいのはあなただけじゃないわよ」「事情があるのはあなただけじゃないわよ」などなど、心のなかに澱(おり)が溜まっていきます。私は昔むかし、いつも生命を賭けて仕事をしていたオートバイのレーサーと付き合っているときにこんなことばかりしていました。「もしも私のキレた一言を胸に抱いてうじうじしていて、レースの最中にそれが甦ってミスって事故にでもなったらどうしよう」とそればかり気にしていました。

自分が好きになれない瞬間が多くなり、その人に振り回されていると勝手に思い込み、悪循環の渦をクルクル廻っているのに抜け出せない自分が自分でないようで怖かったです。その人のことは涙が出るほど好きだったので、強行手段として渡米を続行しました。明日押しかけ同棲してもいいくらい好きだったのに、あっさりと、物理的にそばにいることは自分のためになんかなりゃしないと諦めました。

人間同士がいっしょに暮らしたり、長い間時間を共にするのに「緩み」がないとうまくはやっていけないというのも本当に心からよくわかります。けれど私は「自分が変わったほうがラク」という論理は納得できないのです。「彼のほうが、だんなさんのほうが忙しいから私が我慢しよう」「外に出て働いている人のほうがストレスが多いのだから私が我慢しよう」「私よりも複雑な人間関係に対処しなくちゃならないのだから私が我慢しよう」と思いながらも、「私がせっかくOOしてあげたのに感謝もしてくれるゆとりがない」「いつもはXXだって言ってるのにどうしてこんなこと・・・」などなど、と怒りや不満は少なくなるばかりか大きくなるのではないでしょうか?

そして寝て起きて疲れが取れたと気を取り直し、自分のことはしっかりこなし、自分の好きな人がまた矛盾を繰り返しても寛大になれるように準備をして英気を養う日々なのでは?

私はそういうときがありました。でもそれはもう卒業です。

不満が積もっていて現状を変えられないか、意識的に変えないかしている人から、この発言はよく聞きます。私自身の性急さに対して「急がば廻れ」とも言われるし、「いちいち摩擦起こして何かいいことあるの?」とも言われます。でもそれは印象の問題なのかもしれませんが、私もできる限りの譲歩や思いやりは必要ならばしているつもりです。パートナーの便座おろしが70%で、3割怒鳴っているのかと言われれば、私だってそんな元気はありません・・・(汗)。

毎日ふれあうなかで、西さんもまだまだ発展途上中です。留学生のみなもお友だちも然りです。けれども「彼らの望み・なりたい自分像」を私は大まかなりとも把握しているつもりです。それがおつきあいすることのコミットメントであるし、誠意です。

端的に言えば、生命の危険や健康を害するようなことがない限りは、私は必ずその場で何でも言います。疲れすぎていて聞こえないだろうと判断した場合や、相手の心のゆとりキャパを超えた話以外はいつでもその場でします。MBでもそうだったし、今のBBSでも、普段のおつきあいでもそうです。通じるか通じないかは考えなければいけませんが、私は相手のポテンシャルを信用します。

私はパートナーという人間のポテンシャルの芽を伸ばさないで、そのまま実も花も咲かせないように、同じ花壇に棲息するつもりはないです。パートナーにも同じでいてほしいです。私がここを直せばもっと尊いことが見えてくる、おもしろい人生になる、ってものがあるなら、いくらでもくどくどと言ってほしい。それは留学生であろうが、友達であろうが、みんな同じです。他人であっても同じです。ただ目につく頻度がいっしょに住んでないと、よく話し合うことがないと、違うってことはあるかもしれないけど。

自分が「馬鹿なふり」をすることで「賢い」に廻り、相手を侮蔑してるように感じるのは私だけなんでしょうか?>「相手を変えるよりも自分が変わったほうがラク」という言葉。いっしょに住むくらいに大切な相手にそんなひどい仕打ちしていいんだろうか?と私は思ったりします。

約束を守れない人や矛盾の固まりな人を「私のパートナーです」と胸を張って言えること、「俺の稼いだ金で食わせてやってるんだ」となじる人を夫や恋人や自分の子どもの父親と呼べるっていうこと、はどういう妥協なんだろうか?と不思議です。友達に関してもそういう友達を100人持つより、誠実で一生懸命な人ひとりのほうが私はいいです。

そういう意味で「私が変わったほうがラク」でなくて、私は「何が起きても話し合えたほうがラク」だと思います。たとえ西さんが途中からゲイに転向しようが、愛人ができて離婚したがろうが、すべてが嫌になって失踪しようが自殺したがろうが。彼には 彼にしか作れない Precious(かけがえのない)な人生をできるだけ長く歩んで欲しいと思っています。そこに私がこのままいることができればラッキーだし、だめでも遠くからでもいいと。でも、今いっしょにいられる時間はいつでも全力ですべてを見て、泣いたり怒ったり歓んだり笑ったりしたいなぁと。

それが相手と自分を一体化している錯覚だと言われたらおしまいなんだけど、私は私で、パートナーはパートナーなのを、私たちはよくわかっているので、それでいいのです☆私だけ変わってどんどん賢くなって(爆)彼をおいてけぼりにするなんて卑怯なこと、私にはできないです。お友だちも同じです。

相手に対して誠実に矛盾を指摘したり、約束を守れなかったネガティブなことを伝えるのは本当につらいです。体力が必要です。けれども同じ船に乗った仲間ではないですか。本気になってほしいと思います。自分の矛盾や約束破りを伝えてもらうためにも、「自分がしてほしいことを相手にする」「相手にやられたくないことは自分もやらない」です。幼稚園のお砂場で習ったことがここでも生きてきます☆

「自分も相手もいつもポジティブに変化したほうがラク」というのが私のここまでの感想です。