[1999年08月28日(土)]に書いた文章です。

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王道:1.儒家の理想とした政治思想で、古代の王者が履行した仁徳を本とする政道をいう。反対語←覇道。2.(Royal Road訳語)楽な方法。近道。

覇道:儒教で、武力・権謀を用いて国を治めること。覇者の政道。
王者:1.王たる人。帝王である人。2.王道を以って天下を治める君主。3.同類のなかで一番強い、力のあるもの。
覇者:1.覇道を以って天下を治める者。特に中国春秋時代の諸侯の首領。2.競争者に勝って第一人者となった者。競技などの優勝者。

この言葉に凝りだしたのは宮本輝の「青が散る」を読んでからです。彼の本を買うのを文庫本から単行本に切り替えた理由は、きっと他のミーちゃんハーちゃんと同じようなとっつきと話題性の「泥の川」だったと思います。文学賞の権威というものをどうしてか信じたようです。今はそういう愚かさはないと信じたいモノです。だからと言って賞のすべてが悪いと言い放つつもりはありません。

新設大学の第一期生として青春を過ごした若者たちの話ですが、その内容にも今日は触れません←いつもだな(笑)。興味のある方は手に取って読んでみてくださいませ。昔、二谷友里恵が慶応の現役大学生時代にTBSでドラマ化され、石黒賢が主役で、松田聖子が「青いフォトグラフ」という主題歌を歌っていた原作です。残念ながら私はドラマはちゃんと見ていませんが、原作を超える映画がないと信じている私は出来がよくても映像にはあまり期待しないことにしています。それに感じ方はさまざまでいいものですしね。

私はこの世の中を“競争社会”だと思っていたような子でした。そうでなければ欲しいモノは手に入れることができなかったし、やさしい心や節度や躾や誠意や公正さがあれば、どんな競争を展開してもいいではないかと、実力で世渡りをしていくことに抵抗はありませんでした。どうしてこの世にはヒエラルキーがあり、さらに見えないモノまで含めるとたくさんの力関係でがんじがらめになっていなくちゃいけないのだろう、と思いつめ、それに負けないために「ならば自分も力を持てばいいではないか」と無我夢中でやってきたという感は、私のこれまでに全体的に漂っていたように思います。

この過程を見つめてみても私は競争は好きではありませんでした。母の内職を手伝っていて、手が速くなって弟に勝ち母に近づいても、その勝負の勝ち負けがうれしいのではなくて、努力して心を砕いてアタマを使って時間をかけた結果、手が速くなったという事実がとても好きだったのだと思います。それはかけっこでも同様で、身長や歩幅の狭い私がドッヂボールやマラソンや飛び箱や水泳全部でがんばって筋力がつき、スタートの瞬発力やゴールまでまっすぐラインをなぞれり走れることや途中で後ろを振り向いたりひじを無駄に振らないようにできた結果として、かけっこで一等賞になることがうれしかっただけなのだと、競争そのものよりもプロセスに位置した発展途上中の自分と、その努力の成果が好きであったことを想います。

そして想うに、私は内職を手伝った数ではなく時間でお金を母にもらっていたこと、一等賞を獲れたからと言ってもリレーの選手の選出ではまたフェアに一から走り直していたことなどを思い出します。そしてさらに、内職での手の速さで弟を馬鹿にしたこともなかったし、足の速さで人気が出ることをうれしいとも思っていなかったし、自分の力や努力の結果を濫用してこなかったことに感謝します。もちろんそう思わなかった子はたくさんいたでしょう。けれども私はしてこなかったです。それは神様が見ていたし、両親も先生も見ていたし、何よりも私が知っていたことです。そういう傲慢な人間であることは小学生であってもかっこいいことだとは思っていませんでした。

勉強に関しても受験戦争にもまれて他人と競争したという実感はかけらもありません。高校生でどうして大学に行きたいと思ったのかは両親と同じように貧乏でいられないと思ったときに、学歴がないと稼げないという間違った情報を愚かに信じていたからです。貧乏が嫌だっただけで、まだまだそのときは読書以外の勉強など好きではありませんでした。かと言って、義務で懸命に何かをやれるような子ではなく、自分で納得しなかったから中退した(結果的には除籍でしたが)わけです。

女性らしさを髪の長さや化粧品のセンスや男の子にもてる度や家事ができることで測ったこともなければ、その細かなことが持つ力を意識して濫用した憶えはありません。

MBに書き込みしていて楽しかった頃に、「長い・頭がいいからってむずかしいこと書く・威圧的・投稿数が多すぎる・日本語がおかしい・英語を混ぜる」などなどとずいぶん直接的間接的にいろいろ言われました。まったく反省がないと言い放たれてMBで話題にされただけでなく、事が複雑になるのを避けるために私が書かない主義に徹していた、他人のHPの掲示板にもいろいろと書かれました。悪口を書いた人で私に直接モノを言ってくれる誠意のある人はいませんでした。アドバイスをして親身になってくれる人はIMやメールでいろいろとなぜそうなるのか、と相談に乗ってくれました。

バイト数や投稿数で、頭のよさや知識の豊富さや人間の質を競争するためにMBに書き込みをしていたと思われるのならば、やはりそれは私の表現がまだまだつたなかったのでしょう。読み手のほうにも無責任さがあったとも思いますが、やはり私の思慮の浅さが原因です。

書くことが武器や力になるネットの世界で、私はその力を権力や権威までに作り上げ、討論になりがちな社会問題などのスレッドで見も知らぬ他人を言い負かせることが好きな人間である、という内容を書かれたこともあります。さぞ気持いいことでしょうね、と。そしてそれに対してそうではないよ、とレスを細かにつけている私に追い討ちをかけるように、「最近彼女はいい気になってたのよ。フツーの主婦じゃなくて女性のつらさを知らない自由な人だから」などともパブリックやHPに書かれました。何をやってもだめだとあきらめたわけではなく、キリのないいたちごっこに疲れたことと、イメージが先行する誤解を解く作業の方法を考えた上で書かなくなってからも、私が友達を使って問題発言をさせたり、別SNを使ってまだ書きこみをしていると言われたこともあります。

私に何ができるのかを考えているときに、ひとりひとりに釈明に廻ることや、もう一度だけMBに書きこみしてみようかとか、血尿が出るくらいにつらかったですよ。私に個人情報を洩らしてくれている人に信頼されなくなることは本当に避けたかったです。個人情報には笑える内容ばかりでなく、つらいことの相談をしあったり、生死に関わる話もありましたしね。

切らない私が悪いのであろうか?と思いつめてもみましたが、人の口に戸は立てられないものです。結局他人の本質がわからないというのは、その人の Loss (喪失・忘失・失敗・損失)です。私に直接言えない悪口を言い、自分の人生が楽しいと思えることは私には理解できない。理解しようともしないで私のことをメールやパブリックで未だに悪く言う人を私は恨んだり嫌ったりはしませんが、ほんとうに気の毒で生きづらい道を選んでいるなぁと思います。

そして自分が持てる力~それは人によって違って当たり前のバラエティのある力で万民に通用するわけがない力であるはずであるのに~で他人を測り、自分の人生を安心する、ということで優越し満足できる人たち。私はそういう人たちを恨んだり憎んだり嫌ったりするよりも、「おねがーい!もったいないからそんなことに使うエナジーや時間があったら、イメージで物事判断しないで、好きになって理解して謙虚に学んで、力を濫用しないでぇ!」と思います。「コミュニケーションの怠慢や放棄をしないでもっと心を開いて他人の話を聞いてみたらぁ?」って。

たとえ一国の政治を行っていないとしても、権力者でなくても、私にはそれが王道であると思います。誰にでも「ひょんな力」で他人を操作したり傷つけたり左右したりすることがあります。私にも多分にあります。そのときにはぜひぜひ強く指摘してくださいとお願いしています。してくれる友達をたくさん持っていて、私はとてもしあわせだと思います

反対に、自分に力がないと思い込みすぎて、力があるように見える人になびき媚びることもまたそれはそれで覇道であると思います。力があっても濫用しない人はこの世にたくさんいて、その力を他人と比べる作業に時間やエナジーを無駄遣いしていない人もたくさんいます。

どちらが絶対的にいいということなどは、この世には滅多にないことなので、私は王道と覇道についてまだまだ日々考えているわけです。けれどもここで言えるのは、うどちゃんはネコの王道を行っているなぁということです。

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ああ、こんなこともあったんだ…と思い出しました(笑)。MBとはメッセージボードの略で、2ちゃんができる前に日本語でやりとりできる場があって、そこで書いていたときのことですね。その後、英語で書くなんてこともしてみたんですが、学校や仕事が忙しくなって、すっかり止めました。今はテキストづくりや、Blog更新、その他で、文章を書くことはもうおなかいっぱいです。レッスンではいろいろなことを試行錯誤させてもらえており、これでもかー!というくらいにいろいろ説明機会があって、毎日が刺激的です。王道は今でも歩いています。

そしてネコの王道を行っていたうどちゃんが死んでから、はや6年も経ってしまいました。

 

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