[1999年08月30日(月)]に書いたものです。

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私はマスメディアだけでなく、さらっと発せられた言葉の羅列なんかもかなり気に留めちゃう人です。「いやぁ、私って性格ワルいじゃーん!」って自分が嫌になっちゃうことしばしばです。こういう瑣末な記憶力のよさっていうのは、かなり人間を生きづらくします。

西さんがとてもとても好きなのは、細かなことは別として「大筋のしっかり一貫した人」であるからで、私の好きなお友達も同じです。世の中もくるくる変わり、人間も自分のスピードでそれなりに成長し(時々すんごいめざましく成長する人いて、これもやたらすごいと感心する・・・)、瑣末なことなんかどうでもいいハズなのですけれども、こう、何と言うか、「信念」とか「大切にしている物事」のエッセンスが混ざっていることついて、一貫性がないことに気づかされてしまうと、やたらげんなりとしてしまうのです。

そういうことってないかなぁ・・・。  

外界からの刺激をすべてひっくるめて情報とすると、やっぱりこの人間が出すシグナル(言葉なり、癖なり、ジェスチャーなり、嗜好なり)もやはり情報になり、それを受け止める私としては、過去情報もかなり参考資料として自分の脳みそをパチパチと電気走らせつつ駆使して、本気で対峙しているわけですね。で、矛盾にぶつかるとやたら混乱する・・・。

でもコンピューターじゃないので、「アクセス不可能」とか「強制終了」なんかはしないわけです。情報を資料として集めるようにして、そこに流れる一貫性をまだまだ追求していったりします。

ネコの言動でもパターン化できることがたくさんあって、それの集大成が個性という性格になって私はかなり楽しい想いをさせてもらっているのですが、出遭ったこともないような、やたらイレギュラーな行動にぶちあたるときは、決まって具合悪いとか、近所にすごいいや~なネコが出現してたりしますね。じわじわな場合もあります。タンゴとハイジが来たときには少し拗ねたうどちゃんでしたが、一生懸命「環境対応」していたのですけども、3週間でりすのようにふわふわだったしっぽの毛が痩せこけました。がんばってくれたんだなぁと思います。たったの3日ほどでなかよしになってからもそのストレスは続いていたんですね。年齢のせいもありますが、やっぱり毛のふさふさ量があまり戻らなかったのでものすごい負担だったんだと思われます←今は、本当に3人なかよしなんですよぉ☆

「読めない人」というのがたまにいます。彼らの言動というのがばらばらすぎて、一定の刺激に対してどんな反応を示すのか予測がつかない人々。これには大まかに考えて2種類のことが考えられます。ひとつは「刺激に対するパターン化が自分自身でできていないこと」。これは学習の積み重ねがまだまだ足りないので、同じ経路で物事を考えられなかったり、プレーンシンプルにまったく何も考えないで行動している場合が多いです。敢えて実験的な「刺激→反応→結果」の実験を自らしている場合は特別です。そういうことで自分を切磋琢磨する人、私は大好きです。

もう1種類は「他人に自分のパターンを読まれたくない人」で、自分という人間がどういう人であるか隠す努力をしたり、知られなくないなぁと防御している場合でしょうね。こういう人は実在します。部分的には誰にでも「知られたくない部分」というのがあるのでしょうが、知られたくない部分が多すぎる人はちと精神安定的に問題がありますね。仮面人生になっちゃうのでたいへん疲れちゃいます。

どちらの場合にしても、パターンがある程度確立されていないとたいへん生きづらい、無駄なエナジーと時間を膨大に使わざるを得なくなりたいへんです。起きたときに必ず歯を磨く、あるいはコーヒーを飲む、あるいはネコのように伸びをする、あるいは新聞を寝ぼけつつ取りにいく、などなど、人間にはエナジー節約のためにも習慣っていうのは有効なことがたくさんあります。

パターン化していることがネガティブに作用することもたくさんあります。いろいろ話をしていても必ずしまいには「自分のことだけ話す」とか「知らなーい!」と今迄話を聞いていたことを全部ぶっ飛ばしてくれて意味なしにしてくれるとか、「で、で、結局は何が伝えたかったの?」と言わざるを得ないくらいに話がばらばらだったり愚痴のみだったりとか、ありますね。

もっと不愉快だなぁと思うのは、「すべき」とか「ねばならぬ」的な発言を連発するパターン。自分がこうあるべきというお話ではなくて、人類やら日本人やらネコやらいろいろを枠にはめこんだ意見のシャワーを浴びせられる場合・・・。もちろん彼らの動機はすごい高邁なのです。でも「こういう人が増えたらもっと世の中楽しくなるよね!」ではなくて、「こんなことするなんて馬鹿みたい!」「理想っていうのは・・・」になってることがままあります。

まぁ、たまにはそういうのもいいです。ナマミの身体は疲れます。誰かにただただ意味なく脈絡なく話したいこと・ぼやきたいこともあるでしょう。不愉快な場面を電車や会社やネットで見ていると、してもらいたくないこともたくさん目撃して「すべき」と言いたいこともたくさんあるでしょう。けれどもそれが何度も何度も続くと、いつしかそれはパターンとなり、その性格となっていくので注意深くステップを踏まねばなりません。

ここが私が自分がいやらしいなぁ、と思ってしまうところなのですが、その頻度の判断にやたら苦しむところ。どのくらいまでが「ストレス発散」や「疲労のためのぼやきや愚痴」なのか、なかなか判断つけられないんですね。だって人よりたくさん目についちゃったりするわけなんですもん。記憶力がこういう細かいところだけやたらいいから・・・。なぜここに注意力が行くのかというと、きっと私が他人にしたくないことだからなんだと思います。

私も人類の未来に希望を抱いているので「こういうことをしない人が増えればいいなぁ」と思っちゃうことありありです。社会的役割はわりと考慮に入れないので「人間はみんな自分で自分の行動を選択して、それに対して責任持つべきでしょ」なんて「べき論」かましちゃうこと多くて、それを聞いた人たちに誤解されて、言葉足りないよなぁ、私のこのパターンっていやらしいよなぁ、と反省したりするのですね。「学習できるチャンスや能力に恵まれているのに使わないなんて信じられない!」なんていう人間はこうある「べき論」やっちゃってるんですな。

愚痴も同様です。手術を受ける決意をする前からかなり身体や行動範囲や精神的にもまいっていたのですが、そのときも「ささやかなことから発生する愚痴」山ほどあって、某EさんとYさんにメールでもうぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ果てしなく続けちゃってました。彼女たちは「人間じゃない、たまにはあるよ、そういうこと!」ととても寛大だったんですけど、やっぱり私はそういう自分のパターンが嫌でした。IMでもYukosanやセラピストYさんにも同じことをまぁ、繰り返し繰り返し飽きもせずに言ってた・・・。

これが私の性格だと思われちゃっても仕方ないぞ、っていうくらいやってましたよ。それは私の性格じゃないんだよぉ、ものすごいどっぷり疲れちゃってて平常心じゃないんだよぉ、と言い訳しても取り返しつかないくらいオンパレードしてました。ごめんなさい←ここは告白コーナーなのか?

そういう自分に嫌気がさすあまり、他人の同じ部分にもやたらと目が行くことになり、「大筋の通る一貫性」がぐらついている他人に気づくわけで、この場合、パターン化の信憑性というのはどこで測ればいいのだろう?とまた深い謎へと突入していくわけなのです・・・。

そんな記憶力や注意力は捨て去り、毎日新鮮な目で他人を見ることはやろうと思えばできないことはありません。けれどもお友達はみな、過去の失敗も含めたいろいろなすてきだったり哀しかったりつらかったりする経験やら考えの集大成なので、それを無視することもたいへん失礼です。自分も過去をひっぺがされたらコワイです。

というわけで、情報パターンの信憑性を探る旅は今日も続くのです・・・。

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Precious One English Schoolでは、このパターン化についてをP-7、思考や情報分類についてをP-11で学んでいただいております。カリキュラムができる前から、考えていたことを、きちんと取り込めていたことについて、たいへんにうれしい確認作業になっています。P-5では、読書をオススメしており、情報の確かさについてもご理解いただいております。

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