[1999年08月31日(火)]に書いた文章です

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ヒロイズム:英雄を崇拝し、または英雄的行動を好む心情。英雄主義。
英雄崇拝:英雄の非凡な才能・人格を賛美して、これを崇め尊ぶこと。
演出:1.演劇・映画・テレビなどで脚本またはシナリオに基づいて、その芸術的意図を達成するように、俳優の演技・舞台装置・照明・音楽・音響効果・衣装などを統括・指導すること。2.式典などが効果をあげるよう工夫すること。

「まさかぁ、そんな大袈裟なぁ!」とここで大笑いされることを覚悟で、ちょいと掘り下げて考えてみたいなと想うことに、ネットでの個人の演出っていうものがあります。動機としては、なぜ私のメールの数があんなに増えていったのか、ということと、MBやネットのおつきあいのなかで「別格」と他人に思わせてしまう人がいて(私がそうだったとみなされることにもものすごい嫌悪があります)、私の居ない場所で私の話で盛り上がってしまうということが、私にとってはとても不自然なことなので、これは一度、ちゃんと考えないとなぁと想っていたからです。

私のことを何の先行イメージもなしにおつきあいしてくれている人はとても多いです。私の口や文章から得ることのみを信じてくれて、わからないことがあったら尋ねてくれて、裏をかくような心理ゲームなんか無しでおつきあいできる範囲が、本来の私にはお似合いなのだと、いつも思っています。けれどAOL-Jはものすごく会員数が増えた!←そんなもん予測できただろうが・・・!

書くという行為はとても楽しいです。文字を記すことによって得られる利益として
・すぐに消え去らないで残る
・時間が経ったときに振り返ることができる
・聞き手でしかない話し相手を読み手とすることで、おつきあいする幅が広がる
・残るということから生まれる言動の責任を自分に課し、意識をシェイプすることができる
などがあります。

しかし、不利益としては、もともと人間の感じ考えることは文字だけで表わすには限りがありすぎます。何度推敲しても「これでもかぁ!これでもかぁ!」ということが多く、最初のインスピレーションを失ってしまうくらいに何を書いているのだかわからなくなることもしばしばです。だから一度書いてから、MBなどではレスで「??」と質問されるとちゃんとレスして、答えてくれた考えに対するそのまた考えを書いて、またキャッチボールします。そうすると自然露出度が増えていきます。返事をしないことのほうがよい場合、というのが思い付けない限りは、遅くなったとしてもレスはします。

私がネットを読むことのみにせず書いて参加することにしたのは、友達を作るためでもないし、啓蒙されたりするためでもないし、書くことにより自己顕示欲を充たすためでもありません。失いかけていた書き日本語を取り戻すためと、広く他人の考えを自分に引き込むためでした。純粋にそのふたつです。

そのプロセスでかけがえのないお友達ができることはグリコのおまけよりもでっかい楽しいおまけですし、目からうろこが剥がれるほどの新発見もとても有意義です。ただどうしても私の自己顕示欲については思惑通りでなかったことが、やたらと悔しいのです。じゃ、何でHPなのか、というと、顔も見えない、私を知りたくもないだろうみなさんに向かって発信することに限界を感じたからです。「ほんとーに私にゃぁ自己顕示欲なんかないんだよぉ」と言っても信じてもらえない人に向かって、エンパイアステートビルディングが大火事になっているところにバケツの水をぶっかけているような気がしてて、とってもストレスを感じていました。私が「関わらない責任もある」と思っていたことに対して覚悟が足りなかった誤算です。

昔からの友達と帰国して飲んだときに英単語を混ぜて話をする私を疎まれたことが数度ありました。でもね、本当に見つからないのです。その場でちょうどいい、気持にぴったりした言葉がするりと日本語で出てこないことがあるんです。厭味とかひけらかしでなくて、あんまり英語をがんばっちゃったんで、日本語で喋っていても「英語圏にしかない文化でぴったりくるものとその言葉」を身につけてしまった私には、長ったらしい言葉で日本語で説明し尽くすのがむずかしいことがあります。限られた短い時間でどうやってうまく説明しようかと思ってもなかなかうまくいかなくて、ただの高慢ちき野郎と思われるのはとても哀しい。

それはちょうど九州で生まれ育った人が標準語をアクセントもなく駆使できるようになっても、自分の母国語である方言を忘れたくない、ずっと使っていきたいという気持と同じです。たまたま英語は難しいから、と考える人が多いだけで私にとってはどちらもきちんと正確に使いたいだけで、それは地方出身者の誰しも持っていることでしょう。

私は英語の効果を計算して、自分の評価を高めるために使っているわけではまったくないし、頭がいいとか悪いなんてことからは遠くとおくかけ離れたことです。

英語圏のエッセイや討論というのは、まず自分の意見や立場をはっきり言います。そのあとになぜそう考えるのかを書き、そのあとで証拠を複数提出します。そのあとに、反対意見の肯ける点を評価し、その穴を指摘します。が、ゆえにそう考える意見も理解できるのだけれど、私の意見がいいでしょう?と、最終的にはまた自分の意見でどのような将来性や解決策が見出せるか、人類としての発展性があるか、研究テーマとして価値が高いか、などをしつこく言ってから、エッセイを終えます。このほうが合理的なんだよ、と強く言われました。

私は英語のこのしつこい相手をねじ伏せるやり方に慣れなかった日本人な私だけが実在した頃には、英語力までも疑われました。英語ができてもこの理論性が理解できないならばどんなにすばらしい考えを持っていてもA(優)はあげられない、と。Religious Studies(宗教学)では同じエッセイを4ヵ月半で12回書き直したことがあります。つきあってくれた教授にものすごく心から深く感謝しています。仏教やヒンズー教や神道にも精通していた彼だからこそ、私の素材を広げることに懸命になって心と時間を割いてくれたのだと思います。その彼を見て、私は「いいところ取り」は決して悪くないと思いました。

私の日本語の書き方には英語のそういう合理性も混じっています。英単語も出てこざるを得ないこともあります。それを自己顕示欲とみなされてはとても困るのです。ただただMarginal(境界線にいる:この場合たくさんの文化のあいだにいる)な人間として、生き延びてきて、しかもそれは言い訳でなく、日本語をきちんと話したい・書きたいという態度は純粋なモノだからです。

HIV・薬剤・フェミニズム・家事分担の合理化・子育て・商業主義・宗教・言葉の含蓄・人類の可能性・動物愛護・教育・リサーチ・マスコミ情報・中絶・芸能人の生活と国民への影響・差別と偏見・水源確保・危機管理・臓器提供・ホームレス・個人の自由と権利などなどについて考えることも、私の住んでいる場所では日常チャメシゴトなのです。それについて意見を持たないことは、人類として生き延びることについて諦観していることになります。だから自分の考えなら書けます。

それをパブリックであるMBに書いたら「自己主張の強い自己顕示欲の強いヒロインぶった嫌な野郎」ですか?私はヒロインになるための演出なんかこれっぽっちもしていません。

「平凡な人間は自分の読みたいところだけ読んで他人を判断しがちなんだよ」と慰められたことがあります。裏で私を「女王様」というあだ名をつけられていたことが発覚したあとのことです。私は私の意見に簡単になびく人間なんかロクなもんだとは思ってません。きっかけにしてもらえたらうれしいですが、みんなが自分でよく考えて自分の意見を言える世の中をずっとずっと待ち望んで希望しています。そのためにたくさんの投稿数や長文で威圧感を与えてしまっていたらごめんなさい。けれども、簡潔になんか書けないくらいのシリアスな問題だってあります。千や万の言葉を尽くしてもらっても、私にもまだ解決できてない心の澱はあります。シェアできるお友達がいてくれることはとてもしあわせなことです。

ネットでいろいろな人を見ました。心からヒロインになりたい人は滅多にいませんでした。もちろん例外は何にでもあります。私も同じく One Of them(大勢のなかのひとり)です。わけのわからないヒロインやヒーローを創り上げているのはひょっとするとみんななんじゃないかなぁと、自分を責めていた私は思えるようにやっとなりました。HPを作るちょっと前のことです。自分で自分をヒロインに仕立て上げている人には要注意かなと思います。だってやっぱり、人間はみんなひとりひとりが特別でユニークなんだもの。ひとりだけが突出していることはある部分でしかないでしょう。その部分がでかいか、多いかは、私はそんなに気に留めるようなことではないと思います。

うがぁ、こういうことを書くことも「ヒロインになるための演出」だと思われたらかなりやだじょ・・・・←自分で清廉潔白に墓穴を掘っておきませう。

自分の書く日本語にかなり障がいを持っていた時期を振り返って書いたのですね、コレ。もともと多数が集る場所に集うことがなかった私は、Virtual世界で、自分のナマミがない場所でも実在するかのような仕組みの複雑さについて、まだ考えが至らないところがありました。今は、自由な場所を確保して、こうして毎日Blogをアップしていますが、けっこうな年齡にも至り、やり方も矯正されたためか、いざこざはないですね。

しかし、こうして悩んで大きくなったと思うと、感慨深いです。