[1999年09月01日(水)]に書いた文章です

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頭のいい人~天才~という意味で誰を思い浮かべるか、という質問に躊躇なく Albert Einstein (アルバート・アインシュタイン)を挙げる人は少なくないと予想されます。彼のイメージはたくさんの著述や語録などに残され、何よりも彼の「相対性理論」が私たち人類には残されています。物理学者でも本当にこの理論を芯から理解している人は少ないのではないか?と言われています←私なんかとてもとても☆

I.Q.という映画がありました。アインシュタインの姪っ子キャサリンが恋に落ちる話です。メグ・ライアンが数学者であり選ばれた才能に充ちあふれながらも、自分の頭のよさに不安を持ち続けている設定になっています。アメリカに移民してきた叔父とその学者仲間を天才たちと崇め、彼女は自分の才能をそれこそ「相対的」に考えてしまうのです。

心理学者と婚約している彼女は「頭のいい子ども・約束された将来・つりあった関係」にこだわり、数学を続けます。キャサリンの車が故障したときにその車を持ち込んだ修理工場の工員がティム・ロビンス扮するエドです。遊び心の旺盛な叔父アインシュタインとその仲間はそのショップでコンパーチブルに車を改造することになり、恋のお膳立てをすることにします。

ストーリーは読めるでしょ?

頭のよさと恋愛はまったく関係ないことがわかります。頭がいかによくてもすてきな恋愛ができるとはまったく限らない。いかに心が震えるか、いかにその相手のなかに暖かみや希望やヨロコビが見出せるか、そしてそれがずっとずっと続いてほしいと願えるか、ってことが恋です。

頭がいいからと言って心が善いとも限りません。この映画に関しては、アインシュタインとその天才仲間たちはウィットに富んでいて、私テキにはとっても心のよい、粋なおじさんたちです。そのやりとりは実におかしい。どきどきわくわくしつつ、何にでも好奇心を持て、いろいろな現象に歓べ、持てる知識と身体と心を使って、毎日を楽しく過ごしています。

恋愛コメディとしてはとってもキュートでどうなることやらハラハラしつつ、最後にはハッピィに終ります。

ここで私がおまけでおもしろかったのが、実話からどのくらいかけ離れているのか、どのくらい酷似しているのか、その検証は個々の判断に任せるとして、天才と謳われたアインシュタインのモノの見方・考え方・感じ方です。

「おい!今感じたか?」「うんうん、感じた」「恋のAtom(原子)が次の原子を震えさせ、また次の原子を震えさせ、ずんずんずんずん震わせて進んで届いたようだな」なんていう粋な会話。空気が違ったことを言いたかったのか、人間の想いもこの空間に漂うことが言いたかったのか、とてもかわいらしいです。バイクの後ろに載せてもらったアインシュタインは「もっと~!もっと速くぅ!Wahoo!(すげぇ、いいぞ、やったぁ!)」と叫びます。Wahooな瞬間をたくさん持てている彼の楽しそうな日々。エドが初めてキャサリンに一目惚れしたときの運命に出会ったような、頭と心がすーっと一体化した気持を表現していることを聞き、「うーん、私は1915年にそれと同じような気持になったよ」と言うアインシュタイン(1905年に特殊相対性理論を、1915年に一般相対性理論を発表しています)。

心臓を押えて嘘をつき、若いふたりの時間を作ろうとしたり、おちゃめにアイスクリームを食べたり、自分の知らないこと~車の修理~について感心したり、取舵を操作してボートを揺らせて若いふたりをくっつけさせようとしたり・・・。この天才の日常は、私たちと何ら変わらないのです。むしろのんびりしていてモノをコマ送りで見ることができたり、自分の姪とその恋の行方には色がついて背景をモノクロームに見えたり、バイクで風を感じたり、起っている出来事をいかにていねいに見ているか、ということだけが違うんじゃ?と思えます。

「私って馬鹿だからさぁ」「きくみちゃんほど頭よくないよぉ」「それは鋭いね」なんてたまに言われます。私もかつてそういう言葉をよく吐いていました。自分の頭のよさに自信なんかまったく持てなかったです。けれどこの世にはたくさんの物事があって、私が征服してない分野・触ろうとも思えてない興味が持てない分野・コワイなぁと思う分野がたくさんあります。今、言えるのはそれらの部分が減ってきただけで、やろうと思えばいつだって何だってできるってことです。

私は Higher Power に選ばれた天才ではありません。なぜかみんな誤解しているようです。時々西さんに飛んでもない素っ頓狂な質問をして「も~あなた何変なこと言ってるの?」と言われます。数学は数Ⅰしか終えてませんでした。今でも微分積分はできません。でもこの先やろうと思う興味もあればきっと機会も作れると信じています。英語も渡米したときはまったくできませんでした。受験英語がある程度できたことなど、何の肥やしにもなりませんでした。プライドなんか全部棄てて、18~20歳の子が主流である学校で「トウの立ったお姉さん」だったことも忘れて Rice・Lice(お米としらみ)の発音の違いを100回も口に出して練習したもんです。アメリカの州が50個あってその名前も全部知りませんでした。小学生の持っている下敷きのような地図で憶えました。カリフォルニアが日本全土の面積より広いことも知りませんでした。

けれど、私にはまったくプライドがなかったです。大学を負えなかった劣等感のほうがずっとずっと強かったし、まったくわからない言葉のなかで謎と不思議だらけでした。そこで泣きそうだっただろう気持を何とか抑えて、「わからないことは知るチャンスがあるということ」と教えてくれた中学の理科の先生の言葉を自分に納得させようとしていました。中途半端に「知っているぞ」ということもすべてごみ箱のなかに棄てて、一からやりなおすことにしました。「ああ、これは習った!」ということもよくよく聴いてみると何だか中学や高校で習ったこととはまったく違いました。だから余計に過去の蓄積の知識に頼るのは止めようと思いました。自分で考えて、自分で見てやってみて、それから最良の物事を自分を上等にするために身につけようと思いました。

鹿児島のエリート高校を出て有名国立大学に進んだ西さんには、基礎的なことでいつも「ん?これ習わなかった?」「ん?これは当時の新聞をにぎわせたよ」「これはね、こうしてちょいちょいって調べればこんな考えだってできるよ」と言われて、悔しかったり励まされたりしました。それでも西さんはいつもいつも私の頭を本気で扱ってくれました。「よかったねぇ、わかるんじゃん。きくみの廻りの先生や大人たちはきくみに本気になってくれてなかっただけだったね。不幸だったよ」と。そうだなぁ、不幸だったんだなぁ、頭が悪いなんて思い込まされてたなんて、と思いました。何度かそのことを想って泣きました。

「相対的」に考えさせらえて、「ランクづけされた高校やら大学があって、おまけに就職先にまでランクがあって、職業にも貴賎があって、お金があって物事に恵まれてることのほうが頭がよくなるチャンスが高い」なんていう歪んだ世の中にいたのです。成績表はクラスで5は何人、と決めるような文部省の指導があった時期にも洗礼させられました。自分の頭のよさに自信がなくなっちゃっても仕方なかったんだ、それでも私はがんばったんだなぁと思います。

そこから抜け出したから誇らしげに言うわけじゃぁありません。ただ「思い込まされてチャンスを失ってほしくない」と思っています。選んだ生き方にもう一度机に向かう時間がないのはわかります。机でなくともできる勉強や頭の鍛えかたは山ほどあります。私のお友達はみんな頭がいいです。なのに自分のことを時々「馬鹿」だと言います。私にはそれが哀しい。何を以って頭がいいと言い、悪いと言えるのか、私を納得させるほどに自分の頭の悪さの理由を話してくれた人はまだひっとりもいません←つい、「ひとり」という単語が跳ねてしまいました(爆)。

アインシュタインとその天才仲間たちに囲まれたキャサリンに、まっすぐに素直に対峙して恋を遂げようとするエドを見ていると、きっとあなたも90分間で、自分が思ってきた頭のよさについての考えを変えさせられると思います。そして見終わったらその気持を忘れないで、ずっと自分だけが持っている特別でユニークな視界で物事を見て感じて考えてください。決して自分が頭が悪いなんて思わずに。

天才であるアインシュタインでさえ、脳細胞全部使って死んだわけじゃないですからね。私もできるだけ多くの脳細胞使って死ねるようにがんばります☆

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