BBSで禅問答みたいになっていたてんこ盛りだったことのひとつを、さっそく整理して考えてみたいなぁなんて思っていたのです(しかしお引越しと共にBBSの過去記事はネットの藻くずと消えましたね・涙)。

まずは「無知の知」~ソクラテス(470?~399BC)ギリシャはアッセンに生きた哲学者です。私が彼を最初に知ったのは中学校2年のとき、あおやぎくんという男の子が教えてくれたのです。ぽっちゃっとしていましたが、たいへんお勉強のできる子で、あだなは「ういろう」でした←子どもって短絡的ね☆私は彼のことを「かっこよくないし、タイプじゃないけど、この人が言うことは信用していいかもな、これについては」と判断しました。

数学だったか理科だったかでなんか複雑な勉強を習っていた授業中に、「あ~ん、わかんなーい!私って馬鹿なのかな?」と嘆いていた私に、隣に座っていたういろうは、
「昔の偉い人が言ってるよ。自分で知らないと思うってことは愚かじゃないって。ソクラテスっていう人。すんごい昔に生きてた人。」
すごい!すごい☆すごい♪と思いましたよ、私。「おおおお!救われたぁぁぁぁぁぁ!」と思わず机にアタマをぶつけてしまいました。ついでに、ういろうは
「あ、だいじょぶ?(←だけどういろうはいつも冷静♪)ついでにね、パスカルって人はね、人間は考える葦であるって言ったんだよ」
そこで私は「足?足で稼げってことなんかい?」と思ったのですが、そこで先生に注意されたので、その説明は休憩までお預けになったのでした。ま、それくらい私は無知でした。

でもなぁ、知らないと思えることが馬鹿じゃないなんて、いいこと言って死んでくれた人がいたよなぁ、とすんごいホッとしたんですね。そのときの衝撃はまるで雪崩れの上でサーフィンしてるくらいすごいスケールで気持ちいい♪って感じでした。それゆえに私はういろうの言葉をみんなに伝えていました。そのあとに、中学3年間ずっといっしょの担任だった新卒で入ってきた先生は哲学科を出ていてきっと通だったんでしょうな。いろいろ付け加えて教えてくれました。それでもなぜか「言葉だけ」をいつでも振りかざせるような気持ち、言い訳に使ってきたような気持ちでした。どうしてあんなに自分を世間で言われる「馬鹿」だと思っていたのか、今になるとすごく不思議です。

そして私は哲学というものをアメリカの大学で31歳になってから習いました。いい先生でしたね。ご自分はキリスト教のバプティストの牧師さんなんだけれども、何よりも「自分で考える力」というのを教えてくれました。ご自分の教師・牧師というパワーをよ~く理解していて、それをきっちりと奥に押し込むことのできる人でしたが、わざとらしい謙遜をしない人でした。とても感謝しています。

あ、本題(爆)。

ソクラテスのギリシャ語を英語に訳したものを習ったのですが、ソクラテスは奥さんを働かせて自分は町の道端でいつもいつも若者たちと問答をしていたそうです。建設的話し合いをしているように見えた教育だったのかもしれません。テレテレの格好をしていたのでソクラテスを知らない人はただのおっさんだと思ったらしい…(汗)。”I am ignorant but am in fact knowledgeable” (私は無知であるが、実際には知識・知恵がある)というなぞかけのような、矛盾のある、一見シニカルな皮肉っぽい言葉に聞こえることで、問答を始めたそうです。

無知:1.知識がないこと。不知。2.知恵のないこと。おろかなこと。
知識:1.ある事項について知っていること、またその内容。2.ア.物事の正邪などを判別する心のはたらき。イ.正しく教え導いてくれる指導者。高僧。善智識。ウ.寄進すること、またその人たち。3.知られている内容。認識によって得られた成果。厳密な意味では、原理的・統一的組織づけられ、客観的妥当性を要求し得る判断の体系。4.知己。しりあい。5.ものしり。
知恵:1.物事の理を知り、適切に処理する能力。2.(仏教)真理を明らかにし、悟りを開く働き。宗教的叡智。3.(哲学)古代ギリシャ以来さまざまな意味を与えられているが、今日では一般に、人生の指針となるような、人格と深く結びついている哲学的知識をいう。

ソクラテスの行っている無知とは悪い意味なんかじゃまったくないわけです。この世界には厳密な意味での真実は有り得ない、その証拠に文化が違えば同じ物でも違うように利用したり、考えられたりもします。「自分はすべてを知らないんだよ」ということを知っていることが賢いというふうに簡単に解釈されるこの言葉です。私もそう思ってきていました。

さらに考えるとこれだけじゃなくて、「ひとつやふたつやたくさんのことを知っていても無知で有り得る」という意味にもなりますよね。だってね、安易に使われる知識という意味あいはただただ「知っている」ということで、使い方やどのように知っているのかまでは言及されないことが多いです。さらに英語の意味では、その知っていることをどのように知らないことと関連づけられるか、というのもキーで、経験で得たことをどのように考えに反映させるか、というのも「知識」のうちになります。東洋では知恵といわれることがこれなんでしょうね。

あ、こういう当たり前だろうことを知らなかったんですね、私、30歳まで。ただむやみやたらに整理しないで使ってきてしまってたんです、きっと。私はそのクラスが終わったときのエッセイの一部にこう書きました。

「私は育ちきった大人なので、自己やその視点を激しく変えることは普段にはほぼありません。このクラスを取ったことで大きな私の信念の穴たちが少し埋まったことに感謝します。……私の信念は学術的な証拠に基づいておらず、経験だけでした。このクラスが終わろうとしている今、私の知恵がどこから来て、どのように信念を引き出したのかわかってきました。哲学の詳しいこ細かさは私の信念をさらに確かめより強くしてくれました。これから私の信念を説明せねばならぬときには、私は誠意を以って証拠で説明することができます。」

だから語感が違うことや、言葉の意味に私はやたらこだわる人になってしまいました。でもそれは悪いことではないと思っています。悪いように顕れてしまうこともあるのでそういうときはさささっと反省しますが、リアルワールドでそれが悪影響になったことはあまりありません。疲れていて言葉が足りないことでまずい事態になったことのほうが多いです。ただネットでは語彙が多いことや文章が長いことが武器みたいな印象になることがあるので、気をつけないとね、といつも注意することは忘れません。そういうときには内容でカバーしたいと思ってます。言い足りないことがあっても、書きすぎたぁ!と内容について思うことは少ないんですよね。ああ、こうも言えた、ああも言えたと、短くできる方法をたくさん考えてます。

ただ形のない信念をこれでもかぁ、これでもかぁ、と伝えるのは難しいです。過度な情報が入ったときは棄ててもらえばいいのだけれども、少なすぎて他人を疑心暗鬼にさせたり、悶絶させたり、疑問の渦に陥れるのは何かいやです、個人的に。

私は知識がありませんでした。厳密に言うと、私の知識はとっても少なかったです。私は不出来な魂を持つ人間だったので、直感を素直に信じることがなかなかできませんでした。食べ物でもおそばやさんに行って10数個のメニューから選ぶよりも、デパートの上階にある大衆食堂に行ってたくさんの店からひとつを絞り、そのなかにあるたくさんのメニューから選ぶほうが納得できます。知識も同じことです。たくさんの知識を持たないでも軽やかな人を私はた~くさん知っています。でも私は軽やかにはなれないから、なるためにたくさんのなかから選ぶことを望みました。だからこの知識が多くなったことに文句は言いません。これを整理して、なるべく効率よく、短い時間でぱぱぱっと自分の感じ考えたことを伝えられるようになるなら、とってもうれしいです。

疲れているとどうしても混乱が多くなります。アタマがぼ~っとしているときには悪い夢なんかも見ちゃっていけません。赤ちゃんであろうが、ノーベル賞受賞者であろうが同じです。もちろん身体の作りによって疲労にも差はありますが、でも本人が疲労していたら、やっぱりアタマも心もよく動きません。だから知識があってもなくても個人がそれをどう受け止めてるか、というだけで、少なくても凛々しい人になれたらよかったな、と羨ましく思いながら、私は今日もかちゃかちゃアタマの知識をがんがん取り入れ、それらを整理するわけです。なるべく真実に近いことが伝えられるように。話している相手によって、どれがわかってもらえるか考えながら。

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