Dec 14, 2005  に書いた文章です。

 

私はどこかにも書いたように毎日泣きます。疲れないか?とよく尋ねられてしまいますが、泣くから疲れが取れるという利益をかなり強く信じています。フロイトではないのですが、人の身体にはエネルギーのキャパがあり、それを超えると吐き出さなければならないのではないか?というのは信じています。食べて栄養分だけを摂ってから、体外に排出するように、心も同じメカニズムで動いていると強く信じています>が、フロイト全体を信じているわけではないので。特にカタルシスなどはダメです。防衛本能のセオリーが彼の最も大きな功績だと解釈しています。

泣けない、しばらく泣いていない、というのをよく聞きますが、泣くのはそれほど難しいことなのでしょうか?今日はすでに、カリフォルニア知事のArnold Schwarzeneggerが、死刑囚のStanley Tookie WilliamsのClemency(恩赦)を拒否する表明を出したことや、それ関連のニュースで、午前中散々泣きました。事件のあらましはこうです;LAギャングのひとつを創立したWilliamsは、2つの殺人事件で死刑を宣告されます。が、彼は24年前から一貫して無罪を主張してきました。上告をしてきた24年間の中で、彼は子供向けの本を出版し、電話や手紙やインターネットによる若者へのカウンセリングをし、模範囚として過ごしてきました。大学の教授たち複数が、彼をノーベル平和賞文学賞に繰り返し推薦したほどの実績があります。51歳になった彼の死刑を、火曜日の00:01に予定し、カリフォルニアだけではなく、全米が討論を繰り広げています。しかも、最後の最後に、殺人現場の証人まで現れ、彼ではなかったという証言も提出されています。そもそも、死刑をターゲットにした犯罪において、DNAなどの法医学証拠ではなく、人間の証言や目撃を基礎にしているものは、私は執行をすべきだとは思えません。そんなことをいろいろ考えていたら、涙が止まりませんでした。人の愚かさや政府が行う殺人に対して、いろいろな考えが脳裏をよぎりました。しかも、Williams本人が最も潔く、自分の時間が来たということを受け入れているのが強く心に刺さります(これをアップする頃、彼はすでに死んでしまっています。1977年、死刑再開以来、12人目の処刑者となります)。

おそらく9歳くらいから、私はずっと毎日何かしらに触れて泣いています。お休みした日はわずか10日ほどくらいしかないでしょう。何が私を泣かせるのか?というのは簡単です。何にでも共感できてしまえる能力が、私を泣かせてしまうわけです。幼い頃は本当に自分のためだけに泣いてきました。悔しかったことが主で、父や母に理解されないことや、友人や先生に理解されないこと、生きていくのはつらいということでいつも泣いていました。20歳半ばくらいまでは、ほとんど自分のことのみで泣いてきており、悪態をつく代わりに泣いてきた、という感じです。泣くことができなければ、私は悪態をつきまくり、今よりもっと狭量な人間になっていたでしょう。父は「泣くならばこれぞ、という時に泣け。そうでなければ、他人に涙を見せるな」と、私を殴るたびに言っていました。以来、私は殴られて泣いたことはありません。

USに来てから涙のわけががらりと変わってきます。理解されない悔しさに泣いてきたことが、どんどんうれしさがゆえに泣くようになります。大げさに褒めてくれる先生や友人、それがただのオーバーな表現ではなく、真理を突いていることに泣けてきたり、苦労している最中に達成したヨロコビに泣いたりと、質が変わってきました。さらに、たくさんの人種や言語や文化が飛び交う中、私は私でいていいのだ、私らしさを追求してのびのびしていていいのだ、という環境そのもののありがたさにますます泣け、そこにいても不幸に暮らしている人々に共感して泣け、ニュースや映画に泣けてしまうようになりました。それから17年半、まだその傾向は続き、私はもう自分のために泣くことがなくなりました。以前、誰かの話を自分のことのように受け取り、そのために亡くした父を想うという連鎖になったとしても、父がいなくて悲しいのではなく、愛する人が確実に過去にいたことに対してのヨロコビのほうがずっと大きくなりました。

泣くという行動そのものがなぜに私の身体にいいのか?というと、泣いているあいだはあるひとつの物事に心が集中するからです。私は持病がゆえに、一度に2つ以上のことを平均以上のスピードでこなします。英語のTVを見ながら日本語のエッセイを書き、PCのウィンドウは今も6つ開いてあります(仕事用と目を休める用)。飲み物を飲みながら、ビタミンやうこんをさらに口にし、ネコ6匹の所在を確認しながら、持病の腰痛が寒さによって出ないようにと、立ってストレッチしたり暖めたりしながら、TVもZapping(かちゃかちゃとチャンネルを変えること)しています。私の心と頭は普段休まることがなく、眠るときは、脳みそがから揚げ状態になっており、へとへとになってからベッドに入り本を読みます。そして、ほんの数行しか読めないことに感謝して眠りにすーっと落ちていくのです>日中もトイレとキッチンと机の上とベッドの上に本が数冊置いてあり、手を動かす時間が数十秒でも空くと手にとって読みます。

こうした私には、泣いて他のことをしないでいられる時間はとても貴重です。誰かと話しているとき、幼いころは落ち着きがないとよく怒られていました。落ち着いてそのことだけに集中して話す、ということが今でもできてはおらず、相手が話をプロセスしている最中に、私は他のことを考えたり、メモを取ったりしています。食事をしながらTVをつけていても、食事がおろそかになることはないですし、食事をしながら読書をしても読書のみに集中して偏ることはありません。泣いていると、手も足も止めて、ついでに頭の中は泣いている対象物だけで埋まり、私にはとてもいい時間なのです。が、今日のような死刑執行については、内容や関連して考える命題が少し複雑で涙にも疲れが伴うのですが・・・。

浄化という考え方がありますが、涙を流すことにより、体内に埋もれていた澱みを流せるような気がしています。誰かに対して怒りや納得のいかないことを貯めておくと、心の中にマイナス要素を貯金しているような気分になり、どんどん膨らんでいき、最後に相手に対峙して話そう、伝えよう、と思うときには、意図していたより大きな爆発になることはないでしょうか?私はもうそんな貯めはとっくにやめたのでないのですが、若い頃はよくそういう愚かなことをやっていたと思います。悪循環を招き、いい結果が得られませんでした。「今言っても大丈夫だろうか?」「タイミングはいいだろうか?」「この場所ではあまりよくないのではないか?」と、恋をしていた頃はいつもビクビクしていました。素直ではなかったし、自分に自信が持てなかったからです。相手のほうがずっと大切で、自分はどうでもいいと思っていた節がありました。心を浄化するチャンスがないまま、私は自分でも自分の気持ちに整理がつかず、愚かしく繰り返し、自分のために泣いていましたが、自分をヒロインにして悲劇を創作し、あれはあれで溜め込んだ澱を少しは吐き出せていたのではないかと思います。

充分大人になってからは、映画を見て問題提起をされても、散々泣いたあとに、自分なりに何ができるのか?というゆとりも生まれました。今日は午前中にE-mailでシュワちゃんに恩赦のお願いをもう一度考えてくれるように、とだけ送っておきました。が、午後になってすぐにあの発表があったので、私のメールは読まれてもいないのでしょうね・・・。今晩、体力と気力があれば、San Quentin(死刑囚が8割の刑務所;車で約40分)に出かけて行きたいです。が、今の私にはその気力がありません。あの臨場感は自分に大きなゆとりがないと押しつぶされるものです。病み上がり以来、まだデモに出かけていないので、ひとりっきりでは無理かもしれません。

私は他人を泣かすのもかなり得意です。が、怒って泣かせるのは最近ないです。褒めて泣かせています(笑)。自分以外の人でも、私のここを見ていてくれたのだな、とうれしくなると、人は泣いてしまう傾向にあるようです。私を人前で泣かせるのはたいへんです。父のお葬式でも大粒の涙を流せず、目と鼻を真っ赤にして堪えていましたから。が、毎日泣いています。

P.S. Stanley Tookie Williamsは、0:35AM 1000人の人々が刑務所の外で、Joan Baez本人が歌う ”Swing Low, Sweet Chariot”に見送られ、Jesse Jackson, Mike Farrellが率いる反対派の人々が最後まで見守る中、処刑されました。Jamie FoxxやSnoop Doggなどは、スケジュールのため、刑務所には来られませんでしたが、最後まであらゆるところに電話をしていたそうです。私は、TVで見て祈っていましたが、知事からの電話は来ませんでした。

tears5 tears4 tears3 tears2 tears1