媚びる:1.相手の歓心を買うために、なまめかしい態度をする。いろっぽく振る舞う。2.相手に迎合しておもねる。へつらう。

おもねる:(一説に「おも」は面、「ねる」は練る、顔を左右に向ける意)機嫌をとって相手の気に入るようにする。追従する。

この媚びるという字も「責任転嫁」や「姦しい」くらいすごい漢字です。確かに眉の表情というのは、人間の顔のアクセントになり、女性のほうが昔から眉をいじってきたかと思われます。けれども女へんのつく漢字ってどうも私はなじめません…。まぁ、漢字も言葉も使っているうちにいつか淘汰されるから生きているうちはだめでも、将来に望みを繋ぎましょ、っと☆

いろんな人といろんな話をしていると、私はついついとっても痛い質問:「ねね、人に好かれたいって思う?」と尋ねてしまいます。かなりの割合で多くの人は「そりゃーやっぱ好かれたいよぉ」とか「好きな人には最低限好かれたいよね」とか「うんうん、うまくやるためには好かれたいって思う」とかになります。

もちろんここですかさず私は「私はねぇ、ほーんとに好かれたいって気持ちないよのぉ、これっぽっちも」と言って、「しまった!」と思い、すごく長い説明が必要になる場合があります。私が何を大切にしたいのか、という基本コンセプトをわかってくれている人には、そーんなに長ったらしい説明は必要じゃないですが、説明を端折ると、「ただの横柄、自信家、傲慢、協調性なし」というふうに誤解されたり、「好かれる努力もできないはみだし者」とラベル貼られます。

私という人間がどのようなことを言ってもやっても、結局それは私から離れるときに、どのように受け取るかは、受け取る人の心にのみ反映します。責任を持たないとか、そのコミュニケーションを怠るとか放棄するとかの、傲慢や拒否ではありません。いつもがんばってできることをやっている、という実感があったあとで、「どう取られても相手の権利と自由」で、それを私は無理矢理コントロールしたり、翻心してもらったり、媚びたりはしたくないわけです。私が損なわれてしまうことだけは、どうしても避けたいのですね。

真実や確かなモノがあふれていたとしても、情報過多や時間の経過によって起こるさまざまな事件や、瑣末な言葉使いや、受け取り手と私の体調や心の変化によって、たぶん本当に確かなもの、すべて信頼できるようなことっていうのは、ものすごく少ないと思われます。

事実、愚かだった私は、田舎のおじさんが小梅を食べれば10円くれるっていうので、大っ嫌いだったにも拘わらず、食べましたよ、朝ご飯のときに、一夏毎朝。でもやっぱりそんなReward(報酬)につられても、心から好きになんかなれないわけです。大人になって、私の頑固さにもうちょっとバラエティができてきて、梅干しというのは保存食で、いろいろな大きさ・栽培・漬け方の梅のバラエティも見て、いろいろな梅の料理の仕方や他の食材との組み合わせも見て、多少大きな事件があって、それで食べるようになりました。

ツーリングをしていて、雨宿りをしていたときにおばあちゃんがお茶と梅干しを出してくれたのですね。たしか静岡でした。その暖かみ、その手作り感、見知らぬ若いねーちゃんへのおもてなしの心、大きな田舎の縁側の広さ、お仏壇の大きさとどっしり感、雨だれの音、おばあちゃんの手のしわ、そういうものすべてひっくるめて、ぴきーん!と来たんですね、梅干しの味。それから私は「嫌い」だと拒否することはしなくなりました。人でなくても、たとえモノでも「嫌い」とはなかなか簡単に言えなくなりました。

そして他の食べ物でも好き嫌いではなくて、興味があるかないか、なぜ食べないのか、食べられないのか、食べたくないのか、きちんと理由を探してみることにしました。

人間も同じことで、なぜその人に興味が持てないのか、気持ちが殺がれてしまうのか、なぜ付き合わないのか、付き合えないのか、付き合いたくないのか、きちんと考えてから、やっぱり梅干しのときと同様、他の食べ物のときと同様、必ずトライして、これだけやってもだめだ、全力尽くしたぞ、というところまで来ない限りは「嫌い」とは思いません。しかも、人間は変わっていきます。時間が経てばそれだけ変わる確率も増えるということです。だから切れない。

相手もこれくらい本気で私を嫌いで興味が持てなくて、気持ちが殺がれて、付き合わない態度で、付き合える気持ちになれなくて、付き合いたくないとまで考えたら、それは Let Go(見送る)しかないでしょう。だから「切ってくれていいです。私は切りませんが、それを負担には決して思わないでください。それはあなたのためにではなく、私のために切らないだけだから」ということです←別にストーキングするわけじゃないですよ、相手のスペースは守ります(爆)。

嫌われて哀しくないわけはまぁ、ないわけですが、私は好かれたいとはほんとーにこれっぽっちも思いません。好いてくれたらおまけでうれしいですが、他のみなさんと同様でいいし、冷蔵庫やライターと同じでも、それはその人の自由であると思っています。

私のことを好きでない人はよくあるパターンとして、たいていざざざ~っと引いていきます。さよならもなしだし、「今度ね」と余韻を残して連絡が少なくなります。私はそれでいいなぁと思います。また10年後に接点があったときに続きができれば。変わったことをまた察知して、最初からやり直しくらいにお互いが変わっていたら、それはそれでまたおもしろい♪時々、なぜだったんだろう?って考え込んじゃうけれども、まぁ、それも人生です。

さよなら、と言われた場合も同じです。いつか逢えたらそれはまた続きをやればいいのだし、逢えなかったらそれはそれで仕方ないです。

だから無理矢理「好かれるために媚びる」は一切なしです。そりゃねぇ、細かいところでの譲歩や我慢は当然あります。でなければ私はきっと学校も途中で行けなくなっていただろうし、今ごろ誰かに背中から心臓刺されて死んでるかもしれなかったでしょう。でも何度も主旨を伝える努力は怠らないです。それでだめでもまだ言いつづけます。私が自分で居てもいいよな、っていうところまで譲歩や我慢はしないことにしています。うーん、たまにやってて某Yさんに無理してんじゃねぇよ、と怒られるか?でも、その譲歩や我慢の動機は、「好かれるため」ではなくて、私の考えを充分に伝えるためです。自分が怠慢していたことにあとから後悔しないためです。

私は自分を好きで居続けたいのですね。これが私のリアリティです。他人のリアリティを尊重するために、媚びたら失礼でしょ?だから相手にそのときだけ気に入ってもらえるように、自分をへんげさせるなんて私にはできないです。嘘と同じで、続けていったら自己が損なわれます。実体の基礎である自分が保ちつづけられて、さらに柔軟性を持つことは大切です。けれども同じ話題で違う話をしていて、激怒型のいらいら人間と話すときには、好かれるためにうなずき、不安が多く愚痴が多い人間と話すときには、自分もいっしょに愚痴を言い、本能のままに生きていて次に何をするかわからない人間と話すときには緊張し続け、反応の振幅に合わせて矛盾を生んでいては、その基礎の自己がどれなのか、わからなくなります。

かと言って、自分と同じ傾向がある人間とばかり集まって生きていくのもあまりに温室育ちでしょう。どこに行っても、極微細であろうが多少であろうが、違いというものは必ずあります。その些細な違いにならば対応でき、自己の統一ができるならば、きっとかなり違うな、と思える人にも自分が自分であることは披露できるはずです。それで嫌われようが好かれようが、それは自分なのだから、それでいいでしょう。

「復讐が怖い」と言った人がいました。「好いてくれないとわかるともう態度をころっと変えるの」と。復讐したい人には生命の危険がない限りはさせておけばいいと思うのですが、どうなんでしょ。どういう形で復讐するのかにも拠るんだけど、大勢を集めて学校や職場から追い出すとか、家に火をつけるとか、いたずら電話するとかかなぁ。復讐しないと気が済まないような気持ちも、それはその感情を持った人のロスじゃないかなぁと私は思います。刑事事件になるようなことは論外だし、大勢を集めて嫌がらせして、多数決で個をやっつけようとする考えはきっといつか罰が当たると思います。

「いいの、適当に合わせておくの」で、解決するならばいいけれども、Learned Helplessness(学習・取得したあきらめ・無力感)になり、習慣にならないことを祈ります。

私は媚びないやつで嫌われてけっこう♪自信家だとか傲慢とか思われても言われてもけっこう♪歩み寄りと独断的であることの違いがわからないけどわかりたい人には説明しますが、わかりたくない人には強制しません。誤解したまま真実を知らないで背を向けていくのも、りっぱなひとつの選択なので、私はその選択を尊重します。

 

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