うーん、書いたものを読み返してまた書き直したくなるのはありがちですね。どうしてこうもプロット(構成)がきちんとしてなかったのか、とあとから唸ります。プロはその点、すごく洗練されたシステムがあり、印刷されて後世に残ることに関しての厳しさが私の100万倍くらいあるのでしょう。私も推敲してるんだけどまだまだタイポはあるし、漢字変換間違えていたりでいけません。手書きにするとものすごい時間かかるしなぁ…とこれから自分なりのシステム探していくことにします。

依存:他のものをたよりとして存在すること。
依存関係:ある物の存在ないし性質が他のものによって規定され、条件づけられる関係。帰結と理由とのような論理的な依存関係、結果と原因というような実在的な依存関係などがある。依属。
自立:他の援助や支配を受けず自分の力で身を立てること。ひとりだち。
自立心:自分だけの力で物事を行っていこうとする気持ち。
(ついでだな…。自律:1.自分で自分の行為を規制すること。外部からの制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること。2.ァ.カントの倫理思想において根本をなす観念。すなわち実践理論が理性以外の外的権威や自然的欲望には拘束されず、自ら普遍的道徳法を立ててこれに従うこと。イ.一般に、何らかの文化領域が他のものの手段でなく、それ自体のうちに独立の目的・意義・価値を持つこと→他律。)

たまたま子育てからの時間的背景まで含めていたので、この依存という言葉の含蓄もごちゃごちゃになってしまったのでは?とまず危惧しました。

ヒトでは他の高等哺乳類(この言葉もあまりいい響きではないですが)の新生児と比べると、自立するまでの時間がかかります。BBSでもネコより~と話題になっていました♪そのために、ヒトの新生児は他の動物よりいっそう強く母親(あるいは母親の代わりになる大人)の保護を必要とし頼ることになります。これには二面があります。物理的に歩けない・食事ができない・衛生処理ができない、などなどの力が足りないことに対して助けることを、依存と呼ぶことがままあります。これはどう考えても文句を言えない状態で、生命体が「種族保存の本能」を持つ限りは引き受けて然りです。

以前どこかに書きましたが、社会性に大きな影響を受け続け、たくさんの要因が混ざり合い長いながい時間をかけて、多くの哺乳類にAlloparental Behavior(親的行動)として遺伝子に組み込まれることになりました。その強弱は個人差があるとして、無力なもの・いたいけなものに対する「かわいい・守りたい」という感情が湧き上がることを指します。この本能さえもかき消してしまうような事件は確かにありますし、本能のなかにも強弱があるのですが、母性(父性)本能と呼ばれるものにもこの本能が付加しています。ですから親になったことのないヒトでも親になれば学習がまったくゼロの状態でも何らかの親的行動ができることになっています。

この依存性は個人差があるとしても、本能に根差したものであるので、依存したいと発信する側(新生児)も受け止める側(成人)にも不健康な要素はありません。どのような「手のかけ方」をするか、というのは大抵の場合、「社会性」に関わる問題であることが多いことに、子育て実践者は気がついているでしょうか?

子育てのどの部分が本能で、どの部分が社会性であるのか、そのへんの区別がつけられないのは、やはり情報過多であることや、大人自身がきちんと成長して来なかった弊害であるかと私は考えています。私の母は無学ですが、彼女の本能とまわりの関わりを見事に認識する力には目を見張るものがあります。もちろん失敗は数々してきました。けれども、私が親を恨み不平不満ばかりを残していない、精神的に依存しあっていないのは、このへんの見極めが彼女なりにできてきたからであると思います。それを受け取った私も、彼女が「失敗しちゃったぁ!」「わからないわぁ」とネガティブなメッセージを送ったときにすべてをよしと受け止めなかったことにあるのではないか?と思っています。彼女がどのように自立し、今でもまだ果敢に自立しつづけようとしているかは、断片的にこれまでも書いてきました。今後も書くことと思います。

この本能的な部分における新生児と大人の依存性をDependecyという言葉とは別にしてAttachment(アタッチメント)と呼びます。本能的なものと社会性学習による依存心とを区別するためです。どんな部分にもグレーエリアがあるので、何が本能で何が社会性かを見極めるのはたいへんなことですが、私個人の意見としては身体的準備ができない時期での離乳やパンツトレーニングには抵抗があります。その見極めはそばにいる大人にしかできないので、言語を学ぶ前の乳児に対してのアンテナを社会性で曇らせないようにと祈るばかりです。

子どもが成長していくにつれて、心理的依存に対してのアンテナを張ることが必要になります。身体的機能が充分発達しているにも拘わらず、無力でたよりない頃と同じ関係を続けていくのは個としての自立の妨げになります。

ここで誤解してはいけないのは、依存と自立は完全なる対極にあるわけではない、ということです。大人であっても何かに依存することはままあり、それが「昇華」できるかどうか、ということがキーになります。

昇華:2.社会的に認められない欲求や無意識的な性的エネルギーが、芸術的活動・宗教的活動など社会的に価値あるものに置換されること。3.物事がさらに高次の状態へ一段と高められること。

段階的な話になってちょっと複雑ですが、人間の発育発展が段階的なのと同様、依存心にも段階があります。そこから消え去ることは有り得ない、という依存の質的変容を考えていけばわかりやすいかもしれません。依存心が減ること=自立への近道、という場合もあるかもしれませんが、それも依存心の質によります。たとえば、どんなに依存心が減っても、ヒトが社会で生きのびていくためには「承認・賞賛」を求めてしまう傾向があります。これは人間の本能にあることなので消し去ることはできません。どんな人間にもあり、それが多い人もいれば少ない人もいます。その承認や賞賛を自分のどの部分に見出してもらいたいのか、という欲求も個人によって違います。その量を減少させることだけが、依存からの解放ではなく、その質の変化に着目することが依存とうまくつきあう方法であると思われます。

昨日のFabに書いたように「特定の人物」に依存するということ、しかもそれが親や娘という長い関係にある人間であることは、一見初歩的であるようですが、どんな人間でもそのような自立への道は通ってきているはずです。意識した人もいるだろうし、気づかないままに過ぎ去ってしまった人もいるだろうし、未だにずっと確執を胸に抱いている人もいるでしょう。

たとえば母親にずっと依存したり、されたりしてきた女性が、結婚して同じ質の依存心をだんなさんに求めていたら、それはやはり自立ではなく、ただの移行です。対象物が違うことによりまた質は多少変化しますが、根本的に変化がなければまだまだお荷物を背負っている状態で居続けることです。結婚して母親から物理的に解放され、逢う機会が減っても根本的な問題が解決されていなければやはりそれも依存している関係であることは否めません。依存していてもされていても、本当にそれは精神的に健康な状態ではなく、その存在がなくなってしまったときに心に来るダメージには計り知れないものがあります。健康な状態での死別や離婚や別居であってもかなりのストレスであるのに、不健康な状態で引き離されることは、その後の人生や物の見方考え方に大きな影響を及ぼします。

以前母親に頼り切っていた女性が、仕事に頼るというのも、一概に「進歩か退化」かは言えません。その質や思い入れやつながり方をよく見てからでないと、判断しきれないことです。質の変容というのを見極めるのも本当につくづくたいへんなことです。けれども自分の依存心を見つめてみることはとても有効です。自己確立のなかの一貫です。

私はただただ「お酒をやめろ、煙草をやめろ」というアドバイスをそのまま受け止めないことにしています。私の依存心への状況を知り得るのは私のセラピストと私と私に対して本気になってくれる人であるからです。私の依存心の質を知り、それを検証し理解し、その上でがみがみ言ってくださる人のお話はちゃーんと聞きます。それが自立しながらも依存症に向き合い、社会のなかで生きていく健全な姿であると、私は今信じています。

 

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