権力:他人をおさえつけ支配する力。支配者が被支配者に加える強制力。

権力意志:ニーチェ哲学の根本概念。他を征服し同化し、一層強大になろうとする意欲。ニーチェはこの意欲が単なる生存闘争ではなくて、存在の最奥の本質であり、生の根本衝動であると説く。

権威:1.他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。2.その未知で第一人者と認められている人。大家。

威力:1.他を圧倒して服従させる強い力。2.人の意思を抑圧するに足りる威圧的な行為。

権威主義:もっぱら権威に価値を認める主義。権威に対する自己卑下や盲目的服従、また、権威をもって他を圧迫する態度や行動としてあらわれる。

権威的性格:権威や強者に服従する一方、弱者には自分の力を誇示する性格。

語彙に相変わらずPicky(うるさい、こだわる)なおおだいらです。これら違いの大きさをわかる人がひとりでも多く増えることが、本当の権利と自由への道であるなぁと実感しています。言葉遊びではなくて、心のなかにあるもやもやをシンボルとしての言葉を借りることによって少しでも輪郭をつける作業が私は好きです。それはやっぱりあんまりもやもやしたものが多すぎて解決しないと息ができないような気持ちになってしまうからでしょう。

私は生っ粋の「平等提唱者」ではありません。悪戦苦闘のあげく、「やっとなった」という感じで、今も「つまづきながら何度も確認しつつ、平等提唱者になり直している」という感じです。「江戸時代か明治時代に生まれたほうがよかったんぢゃ?」という父に育てたれ、それに途中まで付き従う母に育てられました。子どもである私と弟の存在や動きそのものが彼らの夫婦として、親としての態度に影響したのはもちろんのことですが、私は黙って親に権威を与える子どもではありませんでした。なぜそうだったのか、今考えると、「おかしいよぉ、それ」となぞなぞ心がでかかったからであると思います。「先に生まれた人=お年寄りを尊敬しなさい」は祖母のガン闘病のときから不思議に思っていました。私は4歳から6歳でした。

なぜわがままが通らないのかをうまく説明できなかった両親は、「とにかく人の気持ちを考えて、やられたくないことはしないこと!」とだけ教え、その迷惑の範囲はどんどん大きくなるたびに増えていきました。理不尽を訴える私に「それはおねぇちゃんが大きくなっていろいろな新しい人に逢って、たくさんいろいろなことをわかってきたから、新しい宿題が増えたのよ。でも迷惑かけないで自分の思い通りになるとうれしくない?」ともう毎週のように言っていましたね、母。知恵がつくたびに両親にまで「それおかしい。理由がへん」だとか、「先に生まれたからって威張りすぎ」とか「それは違う」とあくまで強情にやってきました。本当に母には「生まれてきてよかったの?」と聞いてしまうくらい苦労をかけました。すまん!>母…(汗)。

とにもかくにも、平等にはまだまだ穴があるし、今の社会形態やその変化のスピードではその実現はまだまだ先のことでしょう。けれども未来に希望を賭ける私はどうしてもあきらめる態度を取れません。なので自分の選択で「平等・対等がいちばん♪」とどんなサブジェクトに関しても根底にこれが根差されています。

政治機関が国を治めるために権力を持つことは、今のところ致し方ないのかもしれません。天才でもない私たちがベルリンの壁・ソビエト連邦の崩壊という歴史を目撃して感じるのは、「少ない選択肢・統制・画一化」というものは、時間に伴った社会の淘汰(これは私たちひとりひとりが作るものです☆)に受け入れられなくなった、ということです。社会主義がいいとか悪いとかのお話ではないです。そこに生まれ育ち、それが当然として育まれた人たちを非難するつもりもなければ、ヒエラルキーに心地よさを感じる人がいて然りです。振り向かなければ、気がつかなければ、それもとてもいい仕組みであったと思います。世界の距離感が縮まり影響されあう刺激が増えた昨今では、かごの外に何があるのかと不思議に思うはやる気持ちを止められるものはなかなかないのでしょう。余計ないじりかたをせずに、壊さないように損なわないように、影響しあうことがだんだんむずかしくなってきています。

力というのは常に存在します。エナジーが自然界にあることを、人間が社会性を付加して操るのはどうしても避けられない必然です。ニーチェの生存闘争本能の解釈には人それぞれに考えがあることでしょう。昨日・一昨日としつこく身体の構造について長ったらしく書いたことには意味があります。物事はすべて繋がっているからです。確かに生命体は自然界では強大になり同化することによって、単細胞から多細胞へと進化してきました。そのときにエネルギーという力が必要であったことも必然です。外から得たエネルギーで強大になってきました。今も小さい規模ではありますが、複雑に生命体はあちこちで変化しています。

けれども、その動機を考えるときに、「自分を有利にするため」よりも、「まず個体として生き延びる」が先に来ると私は思うのです。将棋やチェスや他のゲームと同じです。相手をやっつけるよりもまず自分を守るという本能のほうが先ではないのか?と。そしてどうしようもなくなったときや、複雑な要因が絡んだときに、なぜか攻撃的になる場面が増え、自分を有利にするような闘争本能が顕れるんじゃ?と私は信じていたいです。まずショッキングなことがあったときに身体はいきなり「他を威嚇」しません。コンマ数秒に見えるプロセスのなかでも、まずは個体を防衛するためのメカニズムが働きます。それが哺乳類では昨日説明した自律神経というすごい組織になりました。この順番というのはものすごく重要であると私は思っています。でないとあとからボタンの掛け違いがたくさん起こります。

(とか言いつつ、私も充分攻撃的なやつだと言われているので反省しないとねぇ。いくら防衛プロセスでへとへとになっていても、攻撃するにはあとから書いていくバランスのとれた社会性を持たないとねぇ…汗。)

権力というのは一方通行なことがわかるでしょうか?権威というのがその逆の一方通行であることはわかるでしょうか?(こういうベクトル話になるとお絵描きセットが欲しいですな♪)権力は支配者が発し、権威は被支配者が支配者に発するものです。エーリッヒ・フロムという人が 「自由からの逃走」という著書のなかでその権威的性格について検証しています。なかなか深くて複雑なので一言では説明できないのです。身体のメカニズムを理解すれば本能の順番(何が最初に発生しているか。決して重要性の順番ではない)と絡めて考えていくと「うーん、なるほどぉ」とうなづけることが多いです。支配・被支配という大きな図柄を、個のなかにあるものでミニスケールで説明してあるので、興味のある方はぜひぜひ読んでみてほしいです。これを今書くとものすごい長さになるので今日は割愛します。が、やっぱりキーワードは「孤独と不安」で、これに社会性を付加すると、闘争本能よりも先に発生する防衛本能により強く根差すので、支配したい人がいたとしても支配されないようにする方法がある、という希望を導けます♪

支配者でも権力と権威両方を持つことができる人や団体はいます。キューバのカストロなどはギネスにも載るほどの長い統治をあのような思想で行い、すごいすごい権力と権威、両方を持ちあわせたいい例です。長い例で言えば、欧米文化の柱になるキリスト教というのもそのひとつです。教会の権威は浮き沈みが激しく歴史のなかで上がったり落ちたりしましたが、複雑になってきた社会ではその根強い権威というのはまたまた複雑になりよりしつこいものになっているのは否めない事実です。弊害としてそれに相容れない団体が新興宗教としてまたよそに集います。すべてが悪いわけではありません。これも選択です。

こうして書いてきて、私の中途結論としては「平等には権力も権威も介在しないのが理想」、だが「ルールなしの無法地帯は危険すぎるので、せめて法律だけは守ろうね」ということになってしまいます。

容姿・職業・年齢・性差・学問などなどいろいろなモノに権威を与えつづけているからこそ、そのフィードバックを「しめしめ♪」と思い、あぐらをかく人がまだまだ根強くいる、というのが私の見たリアリティです。実例を挙げると間違った教師、というのがこれでしょう。医者もそうです。若くてきれいな女の子もそうです。親という権威をふりかざしているのはもう見飽きました。愛という名の下に「あなたのためよ」とささやきつつ、自己満足を埋める行為は怖いです。「最初から自己満足って認めればぁ?」と思っちゃいます。けれどもそれは親だけが悪いのではないです。私たちが人間としての素・ベース・基本にごちゃごちゃと社会性を歪んだ形でついたものまでも、がんがん素直に受け入れているからなのです。そうでなく親という立場を全うしている人はたくさんいます。まだ口もきけない子どもに毎日丹念に話しかけて赤ちゃんとネゴシエーションしている人を私はたくさん知っています。教師も医者も若くてきれいな女の子でも同じです。その力を使わないですんなりきっぱりすてきに生きている人はたくさんいます。

力を与えること・力を持つことについて、もう少し注意して考えてみませんか?そうすれば世界平和も夢じゃなくなるかもしれません。うーん、うまくまとまらなかったんで、じぇーったいにまた書く…←自分に悔しいのだよな、これ。闘争本能じゃぁありません♪

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