ボキャブラリー:語彙:一つの言語の、あるいはその中の特定の範囲についての、単語の総体。また、ある範囲の単語を集めて一定の順序に並べた書物。

語感:1.言葉の与える感じ。言葉が持っているニュアンス・ひびき。2.言葉に対する感覚。

私が定義好きだと思っている読者は多いかもしれません。私は、何度か書いた通り、日本語を一度失ったような気持ちになったことが長いあいだ在り、それについての劣等感を持っています。日本語だけで暮らしていたときも、周囲との「語感」の違いはいつも感じていたし、それをどうにかしてオプション系列の用法にして辞書に忠実なものにしようと、ものすごい努力をしていたことがあります。美術がうんと苦手だった私はそれを絵や彫刻にできず、音楽の楽器を購入し習い事にできなかった私は合唱部に入ってもハンディを感じ、容姿の欠陥を当たり前のことと思えなかった幼い頃には、お洋服で表現することができず、ひたすら運動のみで自己表現をしていたと思います。言葉で自分をうまく表現することはあこがれでした。

言葉という日常使うモノについて、受け取ることに何の苦痛もなかったし、「橋・箸・端」「意志・石・意思・医師・遺志・縊死・遺子・頤使」なんていう同音異義語についても、自分なりに当然なボキャブラリーとしての意味を与えたあとで「語感」と闘っていたはずなのですが、どうも私が第一義や第二義にある(辞書で言うといちばんめに来るものが一般的ということになっています)意味と違うように使っているのでは?と誤解されたりする回数が増えて、どうも書くことも億劫になりました。もちろん話すこともです。

そして日記と目標実現ノートと友達に書く授業中にレポート用紙を千切って書いてかわいく折りたたむ手紙、くらいが私の書く場所になり、お酒を飲む以外、バイト先の仕事が要求する以外は、Talkative(おしゃべり・話好きな・口数の多い)だった少女からは卒業して、沈黙を通して自分と話す日々が続きました。

それでも自分の将来に価値を見出せないままに大学受験をし、文学部国文学科に入りました。字を読むことが苦痛でなかったことと、自分の語彙と語感についてもっとチャンスを与えてあげたいと思ったからです。けれでも本格的な勉強の前に大学は去りました。残念なことです。

普段話せないから、なぜかお酒を飲んだり、同じようなことを考えている人と話すと意気投合したものです。私は24歳の誕生日を過ぎるまで一度もひとりで喫茶店に入ることはできなかったし、病的なほどに自分を抑え込む訓練をしていたと思います。この頃までの私はとても暗く、お酒が入ったときのみ、ネコが犬化したような状態になったときのみ、よく話しました。バイトで求められれば、きちんと話をしました。けれども、それは自分が思っていることを披露する、ということではなく、他人が聞きたいことを聞き、質問するという果てしない作業だったような気がします。嫌われたくない、という動機ではなく、自分を混乱させたくない、という動機で、私はたくさん話しませんでした。バイト先で逢っている人や人間観察に興味を持たない人は、きっと私が起きている時間に話している量だけを見て、おしゃべりだと思ったことでしょう。私は自分の話はしませんでした。強く求められるとその人の好意が無になり、多数決の一般論や好き嫌いに準じた価値観に押しつぶされました。だから必要なとき以外に私は行為で物事を見せるようにしていたと思います。

アメリカに来てから「話をしないと損」「一応言ってみれば通る」というのを体感し、私は英語にもがきながら、日本語でも家族への手紙以外にどんどん自己主張を増やしていきます。本来自分がうじうじと持っていた違う価値観が通るようになりました。通るというのは語弊があります。言ってもOKになった環境でした。強い言い方をしているように相手が感じるとか言うのは英語同士ではなく、英語では物事がかなり日本語に比べて肯定的に表現され、敬語の形も普段の日常会話から派生した外国人がなかなかマスターしきれないようなたぐいの微妙さが含まれていました。日本語を忘れ、いつしか日本語をアタマの中で翻訳していたものが、英語を日本語に翻訳するようになっていました。

たとえば英語での受動態はどんどん変化しており、ビジネス界などではほぼ使われません。日常でも受動態を使うと論点や視点がぼやけるので、使われているのを聞くことはほぼありません。形容詞的用法でたまに使われる程度です。By~という日本語でいうところの「私はその景色に圧倒された」とは言いません。「その景色は私を圧倒した」と必ず表現します。そういう意味で私は視点が違ってきたのかもしれません。細かいことですが、書く量が増えるとそういう語感にひっかかる日本人はいるのかもしれません。

あ、でもこれは言い訳を書きたくて書いているわけではなく、どうしてそうなんだろう?という皆様の疑問について私なりに考えたことを披露しているだけです。ですので、いつも通り、私の表現に対しての疑問があったり、反論があったらいつでもBBSでどうぞ♪

そして日本に帰国して10ヶ月働いてみて、私の日本語はたいへん直接的になってしまっていることに気づきます。それを直すためにも何とかしなければならないな、という焦りは増えました。けれどもバイアスなしで、私が言いたいことを聞いてから話をしてくれるようなゆとりのある日本語の達者な人はなかなか見つかりませんでした。そりゃそうです。言葉は生き物です。そして学校に費やす時間が増えて、日本語はなおざりになりました。いつのまにか渡米して9年が過ぎていました。

こんなことを考えていると環境の力というのはすごいものであるなぁと思います。そしてネットで日本語を書くようになって2年になりました。自分をいさめるためにも辞書に忠実な言葉をまず網羅したあとに、自分が考えていること・感じていることを披露するようにしているのですが、それでもやはり人間は自分の感性にひっかかることを拾いがちです。言いきられているような気持ちにしているのは私がいけないことなのだろうと思います。だったら日本人と日本語でおつきあいするのはやめれば?ということなのかもしれません。

あれだけMBで叩かれても日本語を変える、スタイルを変える反省がない、とはっきり言われたこともあります。書かれたこともあります。「あんたの日本語修復につきあっているよゆうはないのよ」ならば、私はそれでいいと思うのです。それに怒る必要もないし。けれども、その書かれたことでまた何人もの人たちが影響され、私が書いたもの以上にイメージが膨らんでいきました。もちろん原因は私です。でも、こういうジレンマ、みんな道のりは違っても大なり小なり体験してないでしょうか?事実、私が始めたばかりのときに書いていた人たちは、あまり見かけなくなりました(So I‘ve heard:私はそう聞いてます)。そして書いたものはどんどんとへんなエナジーも得て歩き出します。私が投げかけた語感がおかしいせいならば、私はいっそ書くことを辞めたほうがいいのかと思っていました。しばらく息を潜めていたこともあったし、チャットも出ても無言が多かったなという時期もあったし、まったくオンしないこともありました。

先日教育を考えるスクエアチャットで、アイドルとカリスマについての話をしていたときに、「うーん、このふたつをイコール(=)の意味が広範囲ある、と考えちゃうのはコワイぞ」と思いました。いろいろな側面があることなのに、多数決という流行に飲み込まれてしまい、『カリスマ店員』なる言葉があり、それを追い求めて崇める人々が実在するという世の中で、私が感じたことをどう伝えれば私の感じた通りに限りなく近く受け取ってもらえるんだろうか?というので泣きたくなりました。

ひとつひとつの言葉にいろいろな側面があり、その小さな重要性をこじくりいじりまわしている、と思われることは多いですが、その私の感性を否定するのはなぜなんだろう?「みんなといっしょ」ではないから?「同じだよ、と混ぜてあげたのに、どうしてそんな言葉づかいをするの?」なんでしょうか?「最初から言いきらないで言ってみれば?」なんでしょうか?

他人が感じていることを私が尊重していない、と感じるのはなぜなんだろう?言葉に俊敏であろうとトライしている姿を見ることで、ただのPicky(うるさい・好き嫌いの多い)と受け取るか、けなげだと見るか、あるいは他の感想を持つのかは、本当にさまざまでいいのだと思います。

ひとつの現象から自分の価値観を披露したあとに、何とかして普遍性を見出したい、と思いながら、私はモノを書いているところがあるし、言葉にしようという苦痛に挑んでいるところがあります。私には他に表現するツールがあまりないからです。楽器があればよかったな。おしゃれが好きでのめりこめればよかったな、モノを作ることがうんと好きで創作できればよかったな、と思います。

そして最も一般的なコミュニケーションツールである言葉と毎日闘う日々です。これに疲れきったらきっともう隠遁生活をするしかないのだろうなと思います。疲れを癒すために書かない日が来るのかもしれません。受け取り手のことを考えなくなったら、その受け取り手を「本気でおつきあいしてくれる」人以外に限定したら、このエッセイシリーズはおしまいです。

けれどもこれはパブリックに書くのはやめましょう推進委員会ではありません。私と同じバックグラウンドを持った人がどれくらいいるかわからないし、私にはMBその他のパブリックエリアはうんと楽しいものでもありました。そしてここもまた、Home Pageではあるけれども、性質が多少違うだけのパブリックエリアです。感情的に過ぎないで、論理的に過ぎないで、バランスよくやっていこうと思います。

私が語彙と語感にこだわるのは、こういう背景があります。きっとみなさんにもこだわる理由・こだわらない理由・気にも留めない理由などなどがあることでしょう。4・5日前に「雨に濡れた野良犬みたいにかわいそう」という表現がぴったりだったというので、その犬の色や耳の形や大きさまで話し合って試してみてしまいました。楽しかった☆こんなのの繰り返しなのかもしれません…♪

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