1999年あたりに書いた文章です。

昨日の続きであることはばればれですね♪日本語には足りていないかもしれない理論的文章の書き方について。

私は日本での教育6・3・3年(12年)プラス中退までの数時間での教育で、効果的な文章の書き方というのを、きちんと習ったはずだったのですが、それにはやはりひずみがありました。国語で習う短歌・俳句・読書感想文の定型などの他に、漢文や古文など習いましたが、論理的な解説文章、感情と論理のバランスを取った文章の訓練というのにはおそらく出くわしていなかったです。国語では情緒的なことと漢字や定型や読み取りを習ったはずです。しかし、その情緒さえも一般化されてしまう傾向にあり、受験問題などでも筆者が何を表したいのかが質問になっていることもままあります。係り言葉・体言止め・変格活用・送り仮名などなどについては訓練があったかと思います。人の心を読む訓練が定型化されてしまいがちな傾向だったのも不思議なことです。

私が日本語で論理的な文章が書けなかった理由は、私が理科数学系をぶっちぎったためで、日本の教育の場合、往々にして義務教育範囲のうちでは、論文系の文章は要求されなかったことにあるのかと思われます。大学で理科数学系を選んだり、社会科学系を選ぶときっとその書き方を習うことでしょう。

もうここが既に「ちとひっかかるぞ」と思います。医師やその他の技術者が専門家用に書いた文章を、「ある程度」一般人が「原本」を見ても理解できない、という理由がここにもきっとあるのだろうな、と。専門家にしてみれば、「真理・法則・広く理解されている学説」の元に展開されているので、事実を羅列した場合でもひっかかりがなくとも、素人には「ぼたんの掛け違い現象」が既に起こり得ます。あるいはおかしな理論であれば自然にひっかかってくる、というようなことが専門家にはできても素人にはできないです。

ならばデータをどのように処理するか、どのように読み取るか、選択をしていくか、のために、義務教育の範囲以内で文献の骨組みだけでもわかっていれば、内容はどうであれ、さりげなく「ひっかかること」「読むべき場所」がわかるようになったりもするのではないか?と思うのです。どうでしょ?確率は高いでしょ?

こういう文章に義務教育の学齢の頃から慣れ親しんでいれば、恐怖や違和感や不安や圧倒を感じることがなくなる効果が出るのではないか?と私は考えています。骨組みだけ知ることはスーパー高等教育ではないし、理科数学系の文章の紹介ならばほんの数時間かければできることです。画一化を避けることができるし、理科数学系のアタマと文系のアタマなどというステレオタイプも避ける近道になるんじゃないか?と希望をかけたりできます♪

今の小中学生はちゃんとできているのかなぁ。

私が子どもの頃は理科の実験でも、手順が易しく書いてあり、「要約文章」というのがお手本としてたくさんあったようです。数字まで丁寧につけてくれてあり、その順番通りに実験をしていけばなんとかなるぞ、というような。そこで理科数学系と国語のつながりとして「その要約文章を自力で書ける」という訓練があったのですが、それはなぜか内容の薄いものでした。読書感想文ではストーリーをうんと短く書くことであり、日記では状況のわからない他人に伝えるために絵も添えたりしました。

その顕著な例が日本語ニュースのテロップです。時間がないときにはあんな便利なものはないですね。何かをしながらニュースを見ていても、日本語さえわかれば「わかるべきこと」「最低限のフォロー」ができるようになっています。ここで、私たちは「考える機会」を奪われていることをわかりません。便利だからです。わからない単語もここで見逃してしまったりします。わかったような気持ちにさせられてしまいます。日本的な現象としては過剰包装・個別包装などにもこういう「余計に過ぎるおせっかい」は顕れています(ほらほら、あの納豆のたれとからしとか。お菓子のひとり分小分けスナックとか)。だったらもっと「考える機会」を与えるためのおせっかいを国や資本主義競争をしている産業ぐるみでしてほしいものです。はぁ~。それが欲しくない人のために選択できる幅が少ないなぁと私は日本に帰るたびに感じます>要らないのだ、納豆のたれとからし。うちにはちゃんとからしもだしもあるよ♪

そういう意味で文章を強制的に読まされることがなくなると、量も自然に減ることが多く、そのジャンルも偏ってくることは否めません。「ああ、こんなバックグラウンドを持つ人がこんな本を読むのか現象」というのは、私は日本でよりもアメリカでのほうがより遭遇している気がします。それは選択肢が多いことにも大きく起因するのでしょうが、世間はRepair Spirit(修復精神)が旺盛であっても、起こってしまう前の人々には個人の責任を大きく課す傾向が強いからであると思います。日本の建前義務教育が中学までなのに対して、アメリカは脱落者もそれなりの数がいますが高校卒業になっています。それほど「世間で生きて行くための準備が長くかかる」ということのひとつの顕れであると思います。教育レベルでない、という反論も私は理解できます。けれども、社会に出たあとに、特別な範囲の学習能力があり、独学ができる集中力や執着がある人はほんの一握りです♪

システムが整っていないことも大きな原因ですが、実際に託児所付きの社会人大学がまだまだ少ないのは、それを望む機動力が足りなかったり、高校卒業レベル・入学許可レベルが高すぎて、専門と一般のSegregation(分離)であると私は感じています。

実際、大学を日本で中退(結果的には除籍)してから、アメリカでの大学に戻るまでの時間、私は他の学校に合計3年行きましたが、そこでの訓練や思考への刺激たちがなかったら、書くことを完全にギブアップしていたと思います。あのままネットに遭遇したとしても、話し言葉だけで終始し、感情だけが先走り、答えがひとつだけでない問題に対して挑もう・書いてみようという気持ちはかなり大きく殺げていたと思います。今でもこれだけ萎える回数や度合いが大きいのですから、やはりチャレンジされたことがなければ、もっとその機会は減っていると想像します。

世間で起こっているあらゆる社会問題に対して、自分の意見を持つことが大切だという土壌に今位置していることは楽しいことです。けれども、留学生などで多く見られるのは、いきなりの変化に順応しきれていないな、というCulture Shock(カルチャーショック)です。日本もアメリカナイズされてきた、Cosmopolitanize(国際化)されてきたと言えども、その長い歴史から影響されているいいものを残していき、さらに国際化のいいものを取り入れるという作業はまだまだ進んでいません。個人でこの程度では、国全体で国際意識が充実するのはまだまだ先の話でしょう。

国際化・グローバルな意見だと書く人がたくさんいますが、それは初期段階で「模倣」であっても、いつしかそれを自分のものにしていかねばなりません。選択肢や未知なることへの恐怖や不安などを強みに変えていけるメンタリティがまだまだ教育制度にも足りない現われが、この理論的な文章を書くということにも言えると思われます。

個人の考えを感情的に書くことは誰にでもできます。それを一般化し、「とりあえず」聞いてもらうために無味乾燥になるような論理的展開が必要である場合もたくさんあります。そしてお互いにその準備ができたときに、理論と感情がバランスよく織り交ざる文章が練れていくのではないか?と私は考えています。これは料理や絵や音楽にも言えることで、自分だけにわかる創作ならある程度までの芸術度というのは可能であるかと思います。それが自己満足のうちに終わっているかいないか、そこから逸脱したいかどうか、それもまた個人の選択です。

その選択を個人がしたあとにどうこう言う問題でもないのかもしれません。けれども、私は国際化という名の下に倫理観を高めようという意識が少しでもあるならば、論理的な文章展開ができるようになることは邪魔なことではないと思います。長い目で見ればそれは有効であるし、情緒を殺ぐもの、という相反したものであるとは思われません。そこに感情を織り交ぜる訓練を重ねれば必ず実現できる可能なことであるし、読み手も論理と感情のバランスが取れて、相互にとって利益の多いことであるのでは?と思っています。

ああ、何か言い訳じみてるか?(爆)今日はなぜ論理的文章が書けると有効なのか、好き放題書きました。気力が充実しているときに、その具体的な展開方法をご紹介できたらいいな、と思っています♪テクニックではなく、ただの骨組み紹介だけですが、読むためにも有効ですし、書けるようになったらラッキーです♪

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