1999年に書いた文章です。

またまた続きです。昨日の論理実証的な文章の書き方を見てみて、おや?っと思ったことありませんか?Topic Sentence(トピック文)の形をさらりと変えつつ、繰り返ししているというテクニック。これは古くは聖書からも使われている用法です。いろいろな書き物をすら~っと眺めてみてね。そうするとほら、何だか繰り返されている言葉とか文章とか文節ありませんか?これに注意して文章を眺めてみると何だかその繰り返されている単語や文章がひとつ太文字になったり色付きになったりして浮き上がってくるみたいに思えてきませんか?

あんまりやりすぎると「あなた私の知性に挑戦してるわけ?」(これは英語の言い回しなんですけど、日本語ではわかりにくいか?)ってことになるという人もいますが、私はシンプルなほうがラクでわかりやすいな、と思うので、長い文章を読むときでも、この繰り返し・反復には注目するようにしています。そして自分の書いた文章を読み直してみても、やはり「言いたいこと・表現したいこと」にはこの反復を利用しています。注意して見るとこんなにたくさん散らばっているのに「げぇぇぇ!気づかなかったよ」ってことのほうが多いことに時々びっくりします。ああ、なるほどね、これが言いたいわけね、と。自分の文章でもそういうのがあって「ふぇぇぇぇぇ!これが言いたかったんじゃん!」というのはボケてますな。

神代の昔から、日本書紀や古事記にも聖書にもその傾向は見られます。でも古文は元々とっつきが悪いので多くの人が読みたいわけではないですね。MBやメールでも「長い」というだけで読みたくない人がいて、スキップらんらん♪としているという話をよく耳にします。「時間がかかる」という事実は、実際に読むことや書くことだけでなく、いろいろなことに対してもいちばんの注目点かなと私も思います。料理であろうが、アイロンがけであろうが、時間のかかることは本当にやり始めるまで億劫さが倍増します。足に鉛の重いボールをくっつけられてるのぉ?というくらいに前に進みません。そういうときは思い切って、おなかがきゅうきゅう鳴くまで、着るYシャツや持っていくハンカチがなくなるまで、「事実」との根競べしちゃえばいいと思います←よくやってるよな、これ。

でも文章の読み書きはそうも行きません。根競べにならないからですね。中学卒業程度の読み書きができれば大抵のことはカバーできます。複雑で見えない部分で読み書きの優劣(この言葉もあまり好きじゃないですが)を判断される場面に遭遇すると、少しずつ自尊心がくじかれることが多くなります。他人や世間と比べてしまうからですね。でも私はいつも繰り返し(笑)言っているように、昨日の自分や過去の自分と比べるだけでいいと思います。それでも、それはあくまで参考だし、常に進歩ばっかりだったら怖すぎるので、全体として少しでもよくなっていたらいいと、私自身は思っています。おやすみも必要だしね。だからいつまでもくよくよと他人と比べないで、自分にできることをやったほうがいい。むずかしいものを読む必要も書く必要もまったくありません。自分の気持ちを表現できれば、しかもなるべく感じていることに近いように表現することができますようにと願いながらできれば、私はそれでいいと思っています。

そこでまたこの、繰り返し・反復は応用できます。自尊心をくじかれることも、努力をすることもひとつの物事~読み書き~ということで小さい規模の体験ができると思います。もちろん雑多な毎日のこなさなきゃならないことが山積みになっているなかで、高い優先順位をつけるのはむずかしいことです。でも24時間あるなかのたった3分から始めたっていいと思います。それが朝のトイレや歯磨きの最中でも。寝る前の眠りにつく前でも。もちろん集中できないとは思います。けれども3分という短い時間のなかでもなぜか集中力についてのばらつきなんかも感じられたりします。Believe Me!(信じてください)だよ。ほんとに3分でも集中力にばらつきがあるのがわかるんです。にんじんを切っていたって同じだし、タイルを磨いてたって同じです。そして長い時間になればなるほど、その浮き沈みをもっとはっきりわかるようになります。繰り返してやること、続けることはとっても大切です。一度で何かができることというのはたいへんまれです。一度読んだだけですべてを理解したという人にはまだ出遭ったことがありません。そう思い込んでいる人には遭遇したことがありますが…(汗)。

PCがお家に来た日には電源がどこにあるかということから入ったと思います。そのときの新鮮な不安、それでも反対にうれしくてどきどきした気持ちを、今まだ持てているでしょうか?たぶん、慣れというのがこういうことであると思います。タイプがまったくできなかった、というのも、今ではまぁまぁ速くなったぞ、というのも慣れですね。アタマでわかっても嫌いなことはできない?うん、そうそう。できないんだよねぇ。だからオープンマインド、何に対しても「好き嫌い」を決める態度はあまりこういうときに便利に作用しません。そういう意味で私は好き嫌いをなくしています。とっつきのむずかしさ・簡単さについてはやはり人それぞれがどのような暮らしぶりをしてきたかということにもよるし、個人差がありますが、物事にはやはり今の自分のひとまわりかふたまわり程度たいへんなことを課す、というのは緊張感があっていいことであると私は思っています。

繰り返すことによって苦痛さが減り、技術が自分のモノになり、時間が短縮され、精神的にもそれに費やしている時間感覚が短く感じるようになります。いいことばかり書きましたが、これはひとりの個人がやることにおいて有効であると思いますが、対人間関係においての繰り返しや反復の慣れというのは、あまりいいことではありません。前回こう言ったから今回もこうだという決め付けや、この人は小食だから今日も食べないだろう、と思い込むことで、人の心を勝手に自分の習慣やデータからの枠で考えていることになります。それがエスカレートすると、「こういうタイプの人はこういうときにこう考えてこう行動する」という、ステレオタイプする危険なことにもなり、個人の違いを尊重しないでひとくくりにされるのが嫌だと思っている自分が、他人に対してそういう行為をしていることになります。すぐに尋ねられる距離感ならば確認もできますが、喋る言葉が違ったり位置している場所のマナーがあったり、互いの距離感が遠い場合にはすぐさま個人の傾向について尋ねることはかなり無理があります。そういうときには「慣れのない態度」はとっても大切です。

受け身の慣れについて書くとまたこれは別の話なのでやめておきます。

繰り返し・反復というのは慣れへの直接的な道のりです。慣れてしまうことが有効なこととそうでないことがたぶん生活の仕方や住んでいる場所や考える対象物やまわりにいる人などの細かい状況でいろいろ変わってきます。それでも、いつでも何かがクリックされると初心に戻れる謙虚さを持ちたいという願い・情熱があれば、慣れることはかなりいろいろなことに有効で、みんなに平等に与えられている時間においても短縮できることになります。慣れていいこととそうすると危険なことの峻別をつけるトライをしつつ、読み書きについても同じことをしてみるのはどうでしょ?

読み書きでの繰り返しはとても有効です。大部分が有効です。同じ文章を何度も読むことも、同じ人の文章を何冊も読むことも、同じ時代に作られた作品を何冊も読むことも、同じ文化のバックグラウンドを持つ何人もの筆者の文章を読むことも。その裏側にはいつも「いつでもなろうと思えば初心に返れる、オープンマインドになれる」という強靭な意志があるといいです。なれっこないよ、ではなく、いや、なれる!という自分への信頼感。これがあれば、文章の読み書きに慣れつつも、内容に惑わされず、いいものや取り込むことが自分なりのシステムででき、洗脳されることもなく、ひとつの影響だけに偏ることもなく、また次のおもしろそうな読み物に移ることができます。それを少しずつ増やしていけば、外国語だろうと火星語だろうと、イケてしまうのではないか?と私は思っています。

データがそろわないという悲劇が今の情報過多時代では有り得ないことではないか?と錯覚しがちですが、繰り返し同じ傾向のものを読んでいるとそれは起こるでしょう。一時期同じものを読んで次に進むあるいは移る気持ち、は繰り返し・反復の日々のなか必要です。読み物・書き物は過去の想像物やデータや経験の力を借りて、アタマと心にも進出します。そのリスクを背負ってでも、私はたくさんを読むことは悪いことであるとは思っていません。文字のない世界にいたあるいはいる人々の気持ちを想い、今文字が読み書きできることに感謝し、乱雑さに心がこもらないことがないかどうかいつも確かめつつ、私はたくさんのモノをこれからも読んでいこうと思っています、繰り返し、くりかえし。うわぁ、果てしない♪でも楽しそうです☆

 

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