何だか長ったらしいタイトルになりました。なぜかというと、やっぱり一言で「不倫」「浮気」「婚外恋愛」などと言えたもんじゃないな、と考えているからです。これに関して是非論をするのも「考える機会」「自分はどうするだろうか?という意識を確認」という意味では意義があるのかもしれませんが、恋愛もまた複雑で、体系的にするにはケーススタディするしかないようです。

私も西さんと出逢ってから数度恋愛はしています。西さんに飽きたとか退屈だから刺激を求めた、ということではまったくなく、神様を冒涜しているわけでもなく、単純に本能に負けたわけでもないので、一口には説明できません。私のSignificant Others(重要な影響を与える個人)はみな「恋愛はしてみたほうがいい」と口を揃えて、自分たちそれぞれの人生をふりかえっているので、何だか私も影響を受けている部分は大きいです。

最近、西さんは檀一雄の「火宅の人」を読んでうなっていました。私も10数年前に読んだきりだったので、もう一度読んでみようと前回、帰国の折りにまとめて買ったなかにあったものです。

「Commitment(コミットメント)しているのによそでまた恋愛するのはおかしい」という理屈はわかります。ならばなぜ結婚したのか?ならばなぜExclusive(全面的な、限定的な、独占的な)な関係を選んだの?ということになります。そこの矛盾を少しクリアにするために、私は西さんといっしょに住むことにしたときに、「本気も浮気もありね。別れたくなったらいつでも申告すること」と話し合いました。西さんが実際に申告したことはなく、いっしょに10年以上いますが、私は「別れたほうがいいと思うか?」という申告はしたことがあります。けれども「別れなくていいと思う」と言ってもらえて今に至っています。「火宅の人」になり損ねました。私はその西さんの大きさに負けて、なぜだか「戻った」ような気持になってしまったからです。

けれども私がまた同じようなことをするであろう危機感は西さんにはいつでもあるし、私もまた彼が私をどのように見ているか、ということに汚点がついたのでは?という危機感もあります。けれども、彼が私を私のまま受け止めてくれているという信頼感には一寸の狂いもありません。しあわせなことであると感謝しています。

日本に居た若い頃には、恋愛している最中に恋人に「好きになりそうな人がいるの」と伝えただけで、不信感が生まれてどこか関係がちぐはぐになったこともあるし、そこで「じゃ、好きなだけやって気が済んだらまた連絡して」と同時進行を拒んだ人もいるし、「まぁ、曜日は決めなくてもいいから、逢っているときには知らせて」と言った人もいれば、「自由にしていればいいよ」と背中を押してくれた人もいます。ラクな人とつきあっていこうと思ったわけでは決してなく、秩序や倫理から外れようと思ったわけではなく、その時点では「コミットメントの深さ」という言い逃れのもとに、まだまだ自分のSoul Mate(魂のパートナー)を行脚していたという錯覚をしていたような気がします。

アメリカの都市部では金曜日土曜日にデートに出かけないという若い人たちは、文化的に少し平均からかけ離れていることになります。結婚前の時期に、いろいろな人とデートをして、自分にもっともあったMatch(マッチ)を探す時期だとされているからです。そのときに恋愛感情が存在するかどうか、はその進み具合によるもので、気に入ろうが気に入るまいが、デートはいっくらでもしていいわけです。そこにセックスが入ってもいいという考え方さえあります。私も個人的にはProtection(保護)、この場合はコンドーム、さえあれば、減るもんじゃなし、いいではないですかぁ!と思います。ただ個人それぞれの性格や人生観があるので、それに臨機応変に合わせることは、何の場合でも必要です。

私は恋する自分の心の動きに責任が取れないと信じ込んでいたので、生涯結婚はしないだろう、と思い決め込んでさえいたのですが、結婚はしました。それにも諸事情がありますが、結婚した事実は変わりがないです。ただそれで「結婚したのだから同時進行の恋愛を他の人としてはいけない」という条項は、西さんと私の結婚の契約には含まれていません。他人がそのような条項を入れていても何の抵抗もないし、立派に自分の決めたことを守れていることはすばらしいことであると思っています。うらやましいくらいです。

「恋人を選んだのだから、結婚したのだから、あとはパートナーとだけずっと恋愛していくべき」という理屈はたいへん納得がいきます。理想であると思います。私も西さんに強く恋愛している時期もあれば、何となくそこにいてあたりまえだと高慢ちきになっている時期もあり、慣れとは恐ろしいことだなぁといつも思っています。

でも心が動いてしまうことは止められないものです。私も恋をしようと思って誰かに魅かれるわけではなく、気づくともうどつぼにはまってしまっているわけです。もちろん途中でポンピングブレーキなんかもちゃんとかけていたなぁ、と思ってはいるわけです。あとはそれを行動に移すか移さないか、の問題になるのでしょう。

「浮気性なのは病気だから死ぬまで治らない」という説があります。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれません。私は浮気をしているとは思っていないからです。詭弁であると誤解されるところですが、「いつでも本気」なわけで、西さん以外の人を西さんより下だとか、お余りに恋していると扱ったことがなく、相手もそういう意識があれば、続いてしまっていたのではないかと思います。けれども、やはり時間が経つと、Exclusive(全面的な、限定的な、独占的な)な関係を求められるようになり、それは終わってしまいます。そういう意味で私は残酷なのかもしれません。正直でいることは現実視しなければならないことがたくさんあり、やっぱり残酷かもしれません。

けれども、同時でなければ安心できる、という、独占していれば安心できる、というのは、どうなんだろうか?と私は常々考えています。離婚して次の人というのは、一夫一婦制文化における正しい姿であるけれども、やはり回数が多ければ罵られるし(エリザベス・テーラーは7回とか?)、同時進行がないことをなぜか誇りにさえ思う人も増えてしまいます。

この弱い人間たちの性を律するための一夫一婦制なのでしょうが、弊害もまた多くなっているような気がします。それをかたくなに守れると信じ込んで生活していると落とし穴もでかいし、守れないと最初から決め込んでいすぎる場合の充実度にも問題があります。

相手に対峙していて、理解しあえているならば、他人がどうこう言う問題でもないはずなのですが、なぜか他人を批判する人は多いです。私は、ひとり以上の人と同時恋愛をしている人に対しての観念としての抵抗感はまったくありません。自分がそのサイドにいるから、ではないです。もう恋愛しないかもしれないし、するかもしれないし、それは誰にもわからないことで、いくら律していてもそれはまたやってくるかもしれないし、来ないかもしれないし、そのときにどうするかはある程度決めているけれども守れるかどうか、100%の自信はないです。

そしてその混沌としたなかに居る人が批判を浴びるだろうことを覚悟でいても、言いたいことがある場合に、私はいつでも聞けるようにしたいです。もちろんケーススタディで「この点は違うかも」「こうだからこうなんじゃない?」とはっきりと自分の意見は言いますが、したことそのものが悪いことであるという価値観は私にはありません。私もきっとそういう態度の人に打ち明け話をすることと思います←今までちと失敗したな、正直すぎて、という例あり(爆)。

はぁ、恋する気持がなくなるのも困るし、あればあったで倫理とはかけ離れていくし、完璧がないこの世の中で、恋心ほどうれしくて困ったものはありませんねぇ…。

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