うーん、これも二元論(よしあし)ではないのだけれども、留学についていろいろ言う人はいますね。実際に留学を考えたり、経験した人は戦前に比べたら(まぁ、54年も経っているけれども)ものすごい数になっていると思います。特別に余剰なお金がなくとも海外に留学に行けるという経済的なことがまずは第一点でしょう。

世界が狭くなったことへの感謝です。換金ができるがゆえに、経済発展があったがゆえに、飛行機の恩恵も受けることができ、「船倉でゲロゲロやりながら桑港に着いた」なんていうのは昔話になりました←けれども経験者からナマの話は何度も聞いています、私。持ち込み金額の制限も増え、銀行の発達に従って現金でないお金を動かすことができるようになったことにも感謝。このため、留学だけではなく、観光もしやすくなりました。

そこで観光と留学の差異があまりなくなってきたという現象も起き、さらに海外駐在員が、大使館などの公的なものやアカデミックな学究関係だけではなく、一般企業でも増えて海外流出者が増えました。そして「海外に行く」ということがどんどん雑多になり、そのへんでも是非論が言えないことであるのに、なぜか疑問が浮かんだときに、ケーススタディではなく、是非論へと展開してしまうことが大いにあります。けれども、手軽な留学が増えているのも事実です。

私も留学生であったし、紆余曲折があってまたもやF-1 ビザ(学生用)を申請しなおして留学生のステータスに戻ることになりそうです。たくさんの留学生に遭遇し、さらに家にも日本からの留学生に数人住んでもらいました。今もまだひとり居ます。

大きな絵柄から考えてみると、まず個人の資質として、「変化」に順応できそのなかから自分という個に適したものを取捨選択でき得るかということかと思います。これだけでもかなりたいへんなことですが、まずはこれであると思います。順番としてはまず「変化」を先に自分の持ってきたバックグラウンドと重ねあわせてから受け入れることです。自分に引き付けてみて、それでダメならば棄てるという作業。これができない人は留学には不向きであるかもしれない、と私ははっきり言わせてもらっています。頑固すぎずに流されすぎずにやることは、本当にむずかしいことですが、これがいちばん肝心だと私は考えます。

私は日本でずっと「靴を脱いて家で過ごす」というのをやってきました。寮や居候やルームシェアなどで靴を履いたままの生活もしてきましたが、やはり私には掃除や衛生観念や持ち物との調和などなどを合わせ考えると、靴を履いたままの暮らしは続きませんでした。「あたりまえでしょ」ではなくて、やってみる心があるかないか、大きな差が出てくることだと思います。これはただの例ですが、食べ物や言葉や宗教や文化全般に言えることではないかと思います。お金という力で押し通しても長く続かない精神というものが文化のなかにはあります。常識はその文化のなかでの常識であり、多数決でもないと私は考えています。同化する必要性が必ずしもあるのか、見極めることは大切です。

第二に、留まり学ぶということの明確な目標を持っていること。その目標の設定は限りなく個人の自由です。遊ぶことでも恋人探しでも学問でも何でもいいです。今までの自分が学んでいなかったことを学ぶ、今までの自分が学んだ上に構築していく、という目標があれば、その目標の内容は誰が指図することでもないでしょう。ただ現地で学ぶには語学が必要です。それに対する考えが甘いと、問題があとから山のように出てくることは否めません。その語学をどこまでやればいいのかも、この自分が企てた目標次第です。

そこで多分多くの人が問題にするのは、その「身に付けるものに価値があるかないか」という議論ではないかと思います。就職に外国語はもう有利にはならないだの、そんな分野で学んだことは仕事にはならないだの、という議論。確かに「手に職を付けて帰国をしてからキャリアアップを図る」という目標設定ならば、是非が出てくるのかもしれません。でも目標設定がそうでない人もたくさんいるし、途中からそうでなくなる人もたくさんいます。

私は最初から帰国する気持がほぼありませんでした。下調べのときにFAA(連邦航空局)の業務用ライセンスは、帰国しても個人用のものにしか書き換えられないことを熟知していたためです。ですから帰国したらそれほどの価値がないわけです。私と同じ学校に通っていたパイロットの卵たちのなかには、日本の事業用に書き換えるための費用を請け負ってくれる就職先まで探してから来ていた人もいました。そうすれば価値があるからでしょう。

アメリカに居る時間が長くなればなるほど、がんばればがんばったほど、「まだ離れられない、帰国はできない」という気持ちになり、いつしかそれが12年になってしまいました。なぜ日本に帰る必要があるのか、なぜ他の国に移動してまた留学をしてはいけないのかという自問に明確な答えが見つからないので、まだまだ留学をしているところです。で、たぶんもう帰らないんじゃないか?と思っているところです。

私は語学だけでなく、日本ではまだまだとうてい最新のアップデートまでが即座に学べないような環境に自分を置き、そのエッセンスの濃さを自分が感じられるところで学ぶことに意義を見出しています。お金はあとからついてくるであろうし、それを生かす場所も帰国後であろうが、10年後であろうが、20年後であろうが、死ぬ間際であろうが、どうでもいいのではないかと思っています。もしも私が身に付けてきたことがお金にならないならば、何をしても食べていくし、死ぬまで留まり学ぶことは止めたくないくらいに、楽しいことであると思っています。

ここで目標設定がどんどん変わることも留学には含まれ、そのなかには問題が起きたときの経済的なことや、結果が予定通りでなかった場合の別のルートやさまざまなことがあり、それが直接帰国後へと直結すると考えてしまう考えのほうに、私はむしろ疑問を持つかなぁというところです。

目標によって経済的な準備や、期間や、場所や、覚悟のほどやいろいろなことが変わります。なので、是非を語るにはケーススタディする以外になく、それ以上はただのラベル貼り効果しかないのかなぁと思えます。

現地の人たちとどのくらい仲良くするか、どのように仲良くするか、という距離感も、それまで自分が培ったことへの上乗せになります。基本は生まれ育った国でどのように自分を確立してきたかに掛かり、その過不足をどのようにシェイプしていけるか、ということが焦点です。過剰分を削ぐ気がないのも留学した場所のContext(内容)を検討して自己との調和点を見出したあとのことでなければ、やはりそれは留学の意義が薄れます。逆に、不足分を足し前する気がないのも同様です。

留学ではなく、観光でも駐在でも、その接点の範囲がそこに住む人々の生活を著しく無理矢理変えてしまう場合においては、多少の思慮を以って考えたほうがいいこともあるかもしれません。どちらにしても自分が生まれ育った環境でない、文化ではない地域に留まっていることに変わりはなく、学ぶかどうかは個人の自由ですが、関わる相手に一方的に学ばせるようなインパクトを与えるのは、私はどうもフェアではないような気がします。それが昔から使い旧されている「郷に入らずんば郷に従え」ということなのであろうと思われます。

帰国してからの態度に問題がある、という話もよく聞きます。私も1年ちょい日本に帰国したわけですが、Counterculture Shock(逆カルチャーショック)は大きなモノがありました。けれども見かけが日本人なので(こりゃあったりまえだな…)あとは「自己と環境の再度順応」でした。また同じように、一度自分に引き込んでみて取捨選択する作業を行い、自分をシェイプしていったわけです。

「アメリカではね」と語る人には要注意なのかもしれません。その頻度や内容をよく検討してから見極める聞く側の態度も大切であると思います。留学にもさまざまあり、そのRichness(豊潤さ)は統計にできるようなものではないです。あるひとつのこと、たとえば語学、であればテストやいろいろな尺があるのかもしれません。けれどもそれも完全に正確なものでもないです。留学もまた個人的な体験であり、その個人の主観がすべてでもなければ、まちがっていたり悪かったりで解決できることでもありません。

できることならばすべての留学を志している人にがんばってもらいたいと思いますが、残念ながら資質に関しての向き不向きを見てきて思うのは、不成功な留学も大いに有り得るということです。それは他人ではなく、自分がどうごまかしても評価できてしまうことです。そのリスクを背負ってでも、成功した場合には自分をもっと好きになれる大きなジャンプをする材料になります。

場所を変えるのはかなり有効です。けれども、どこに行っても自分がしっかりしていなければ何もならないというのは動かしようのない事実です。逃避のために場所を移動するのではなく、そこにある目的のためにどうか移動して、留まって、大いに学んでほしいもんだと思います♪

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