どうしてあんなにもお見事に振り向いてもらえない人ばかり好きになってきたのか、今となってはたいへんななぞです(苦笑)。胸が焼け焦げてしまうんではないかと思うほどに、ただただ私の視界のなかにその人の存在そのものや、その人の魂のカケラや、その人を思い出させる何かがあるだけで満足する、傍目で見ていておかしくおろかな少女でした。よく泣き、よく笑い、よくひとつの考えに没頭し、他に何も手につかぬほどに思いつめ、恋というものそのものに恋をしていた感があります。

あー、でも多かれ少なかれみんなそんなだよね…。

「恋をすると女はきれいになる」と誰が寝言を言ったもんでしょうか?私は長らくそんな嘘っぱちを信じていました。これは正確に言うと、「恋が成就してお互いを知り合うまでのほんの短い時間のみ、恋は女性を輝かせる」の間違いでしょう(爆)。

片想いも失恋も女を醜くします。両思いになる寸前からお互いを知り合い、慣れはじめる前までの短い線香花火かロケット花火かの瞬間にのみ、女は恋によりきれいになり、わずかであるからこそ胸を焦がし、恋の病に溺れることができます。

もちろんこれは人によりけりです。けれども、私にとっては少なくとも恋が長い時間、私をきれいにすることに作用したことはただの一度もありません。苦しみ、のたうち、戻し、食べ、飲み、妄想に耽り、ただただ恋がかなうことに専心し、世にも惨めな醜態をさらし続けた、というのが私の片想いの真っ最中の状態でした。

Courtship(求愛)が落ちつき、つきあい始めてからも私はなぜか両思いである実感がずっとないまま、いつもいつも片想いをしているような錯覚に怯えつづけ、わざと他の男とデートをします。けれどもその男ともだちやどうでもいいデートの相手とのほうが自分らしく振る舞うことができ、苦しみ、のたうち、戻し、食べ、飲み、妄想を抱く、ということがなく、時間感覚は通常に戻り、心臓の鼓動もいたって正常値で、私はリラックスできたのでした。

いつまで経っても恋をしたその人の前で私らしく居ることができず、「世界はあなたを中心に回っているのよ♪」という態度を見せ、実際にそう思い込み、私は自分の人生に何を求めていたのでしょう?行き場のない想いが肩にも胸にも足にもどっしりと重みを加え、自分が好きになった人をさらにさらに好きになり、呪縛はどんどんとぐるぐると何重ものコイルになっていきました。

そして飲酒は深くなり、醜く戻し、ゲーテを3行読むだけで泣き、編物までして(もちろん絶対にそんなもの誰にも見せたりしないわけですが・笑)、安眠できず、どんよりした身体のまま、「こんな恋つづけていて何になる?」と自問自答をしはじめていくわけです。

それが証拠に、私が渡米を決め、「男なんてもうまっぴらぁぁぁ!」と恋心に重きを置かなくなり、男を遠ざけるようになってから、さらにモテはじめました。うーん、これは何と皮肉なことか。「あなたになんか好かれなくてまったくかまいません。私は自分のことで手一杯。あなた色に染まるなんて冗談じゃないわ」としゃかりきにさらに違った意味で醜く、必死になって朝から晩まで働きはじめてからのほうが寄ってくる男は多かったです。うーん、なぜだ?

そうでない女の人がたくさんいるのも理解できます。そうでない人のほうが多いのかもしれません。けれども、私の場合は人生のパートナーになる理想の男の人を追い求める理想すぎる自分がいて、自然で本来の自分が欲しい自分を見失っていたのであると思います。私が秘密にしていた、大好きな冷たいざるそばだったら1枚以上食べてしまうなんてこと、今ならば大声で全世界に言い放てることですが、その頃には言えなかった…(なめこと大根おろしとうずらの卵と白ごまとねぎが薬味でね♪)。好きな人の前ではビールを飲まず、カクテルやワインを飲むスカシちっくなことをしたり、バーゲンで買ったお洋服を誇ることもできませんでした。Hのときだけきれいな下着をつけていることもバラせなかったし、パンプスは長いあいだ履いていることが苦痛であることも訴えられませんでした。

好きになった男の人のために変わる努力をし、行き場のない想いを彼の胸に注ぎ込む、ということがとても自然なことであると思いこんでいました。そして両想いになってもその演出は続き、どんどんと空しさから呪縛のコイルにがんじがらめに囚われていきました。演出がいつか本当に自分のものになればいいな、と。

けれども、私は白いエプロンなどを心から望める女ではなく、食卓に花を飾って気分がほどけるような女でもなく、やはりしゃかりきになり朝から晩まで働いて、ゆとりがないことのほうにふとゆとりを見つけられる人間であり、女であることよりももっともっと先に、人であることのほうが大切であったと徐々に思い知ります。

マグマのようにどろどろに溶け流れ行く先々で触れる、すべてのものを焼き尽くし焦がすような連恋情を持っていたにしろ、私はどこかのわだちや凹みにはまって空冷し、固まってしまうことがいやでした。わだちや凹みの底に温かみがあり、ずっと固まらないでいられる理想の人を見つけられる自信もなければ、そんな人がいても私などを選び返すまい、とわかっていたこともあり、私はマグマであることを止めて、透明で匂いのあまりしない水になりました。時に蒸発したり、時に雨になったり、時に湧きいで、時に海水となり、時に川と流れ、時に雲のなかで休み、なぜだか恋に関して大きな無理をしないことにしてしまいました。

なぜならやはり、恋は私を醜くみじめにしたからです。誰かの存在など、私の手に入るものなどではなく、人の心は鳥の羽根のように軽く、天気のように変わりやすいものです。それに囚われ常にそばに置きたいだのつかんでいたいだのと、徒労を日々重ねることに時間を使いたくないと思ってしまっています。実際、10代から渡米までにかけて、私はそのいちばん欲しかった人の心が私の元に留まってくれることを願い、私テキ時間のなかでそれがいつも生涯そこに変わることなく留まることを望んでしまっていたと思います。ナイーブでかたくなだった日々。

電話がなければ「ああ、私にはもう関心がないの?」と疑い、逢ってよそ見をされると胸がえぐられたように切なくなり、まっすぐ見るまなざしに情熱が薄れたと感じてはたそがれ…。あれはあれでそれなりには楽しかったのかもしれません。けれども確実に私を醜くし、みじめにしました。

自分のためにきれいになれるのはどんな時か、私はもう知ってしまい、それが恋ではないことも確実に知ってしまい、行き場のない想いに囚われ悶絶しまくることももうなくなりました。それが妙に切なくもあり、なつかしくもあり、もうあのおろかな日々が戻ってこないのかと思うと少し残念でもあります。うーん、うーん、ちょっといいんだけどねぇ(爆)。

イコール女を棄てたということなのか?とちょっと前まで迷ってもいましたが、いや、違うぞ、という結論に至り、少し安心しているところです。私は本当にひとりが好きで、自分のために何かをやることが好きで、制約が大嫌いで、他人をコントロールしたり気持ちをうががったりするのが苦手で主義に反することなのです。だから恋の駆け引きには向かないのだ、と(苦笑)。私も立派にきちんとひとりでやれるから、私の大好きなあなたもひとりでがんばってね。でもふたりでいる時間がたくさん持てたらそれはとっても楽しいよね、って感じでしょうか?

と、言うことで、アンディ・ガルシアかショーン・コネリーか高倉健かメル・ギブソンかジョージ・クルーニーに口説かれることがない限り(今、思いつくのは彼らくらいだけど、きっと他にもいい男もれている・爆)、私には次の恋は訪れないことでしょう。少なくとも、我を失い、行き場のない想いで醜く乱れみじめになるようなことは…。

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