カエルって読んでくれてもいいんだけど、一応、「いのなかのかわず」というのが使い古された言葉ですね。この前も大受けしていたのですが、「話の骨を折ってごめんなさい」と表現する部下に、「じゃ、(生き馬の目を抜く)って知ってる?」などと話を展開させて、自分だけがどうも違う日本語を使っているような気がした、という「話し言葉の変遷」について考えてみたりします。言葉って簡単に安易なほうに流れるのではなく、バラエティの幅と意味を持ってより語感に近いほうに変わっていくといいですなぁ(で、昔からよく使われているのは「話の腰を折る」です)。

私はこの言葉が出るたびに、アタマのなかのビジュアルで本当に乾いてしまった古井戸の底で、頼りなげにしている自分のこぶしサイズほどのカエルを思い出します。本来ならば、カジカガエルという暗褐色の美声を発する種類のものを特に指すらしいのですが、私のカエルは緑です。これもイメージなんだろうな…。

しかもちゃんと伝えようとすると、

井のなかの蛙、大海を知らず【荘子】
考えや知識が狭くて、もっと広い世界があることを知らない。世間知らずのこと、見識が狭いことを言う。

だいたい当たった意味で使ってる?近所でおてんばで評判だった私は父親にこの言葉を言われた小学校3年生の頃、必死に調べました。ドッヂボールや天下落しやゴムだんやなわとびで、他人を負かしたことを食卓で父親に威張っていた頃です。でも必死こかなくても岩波の薄い国語辞典にも載っていた(爆)。それでもちとわからなかったり、漢字が読めなかった私に、かみ砕いてさらに例を用いて説明してくれた父は、話を発展させて「お山の大将」とひみつのアッコちゃんの大将の違いも教えてくれたのです←これは子どもにとっては大きな問題。同じ単語を使ってあるとどうもまったく同じものだと解釈するわけです。

御山の大将
1. 子どもの遊戯。低い丘や塚などの上に、他をおしのけて登ることを競うもの。
2. 小事を成し遂げて得意がる人。狭い社会の中で偉がる人。

ひみつのアッコちゃんの「大将」 【赤塚不二男原作】
アッコちゃんの小学校の悪ガキで、土建屋の長男。弟がいて、身体が大きい。いつも威張っている。けれどもときどきうんと優しい。弟のあだ名は「少将」。

↑この「ときどきうんと優しい」というのは、お山の大将にも当てはまるのかどうかなど、いろいろ話してくれたのですが、全般的に「井のなかの蛙」という言葉と同様、なわばりにこだわる人を諌める言葉であることは、子ども心と子どもアタマにもわかったわけです。「大人になってもそういう人もいること」「そういうふうに生きることは自分の損であること」をとくとくと語っていました。かけっこが速いこともドッヂボールが上手なこともそれはそれでいいのだけれども、隣のクラスの子たち・同学年の子たち・上級生・隣の深大寺小学校の子たち、とも遊ぶことをアドバイスしてくれた父は、なぜか私には輝かしい存在にまたなりました。

そして、そういうところだけは妙に素直だった私は、ボールやなわとびを持参して近所のいろいろな公園に出かけたり、学校の休み時間に違うおともだちと遊ぶことに熱中するわけです。でないと空井戸のなかにおいてけぼりにされて、「くわっくわっ」っと鳴くカエルになってしまう、と真剣に考えたからです。なぜ空井戸が出て来るかというと、父が「水をたたえた川や湖がいかにきれいで広くて食べ物がたくさんあってすてきなのに、狭い井戸の水を飲んでそこに来るムシを食べないといけない?」と質問されわからないでいると、「井戸は雨が降らないとお水が貯まらないし、湧き水だって枯れることもあるんだよ」とやたら難しいことを説明してくれたからです。「ええ?カエルってムシを食べるのぉ?」だとか、「へぇ、湧き水って湧かなくなるんだ…。でも大沢田んぼの湧き水はもう去年からずっと湧いてるよ」などと、紆余曲折な話も混ざるわけです。子どもと話すのはさぞかしたいへんであっただろう>父。

それでもそれなりに私なりに納得した私は、小さい頃からの「この町を出て大きな人になるんだよ」という父の願い(初期のFabに書いたエピソード:「トンビが鷹を」再アップしておきます♪)と共に、「うーん、これとあれはどうやら関係があるらしい」と思いつつ、とにかく外へ外へと向かう心を持つようにするわけです。

その後、何年も経って中学生になってから理科でカエルについて詳しく勉強をしたときに、父を嘘つきよばわりした、というエピソードもあります。「カエルは淡水でしか生きられないんだから、大海なんか知らなくていいんだよ」と(爆)。父はそのとき、「じゃ、変種になればいい。塩水でも生きられるカエルになればいいだろう」と私に言い投げて、そのままお風呂に入ってしまいました…。しかも歌まで歌っていた…(汗)。父は機嫌がいいとお風呂で歌を歌う人でした♪しかし、私は中学生になるまでなーんの疑問もなく、おたまじゃくしやカエルと遊んでいたのですね。淡水とか海水なんてことも考えずに…。これもかなり恐ろしい…(汗)。

今でもこういうことを思い出しながら、誰かが「私は田舎者だから」だとか、「アメリカではね」だとか、「芸術家っていうのはね」と、なわばりを限定しつつ話す内容には敏感になります。大海を見てからの細部の検討と、空井戸のなかにいるままでの細部の検討は、やはりどうも違う…。そしてどうしてもどうしてもどちらかを選ばねばならぬならば、私はやはり自分に合った広さのなわばりを選びたいし、器の大きな人間になりたいので、大海を選びたいです。大海に出るまでに、どこの石の影にどんな魚が卵を産んでいるのか、どこにどんな種類の苔ができているのか、どんな季節になると人間が魚つりに来るのか、などなど、小さななわばりの細部も観察しつつ、自分はどんどん大きな外の世界に目を向けていく、という同時作業ができたらいいなぁと思うのです。そして、淡水でも海水でも行き来できる生命体になれればなぁ、と。

そしてアタマのなかは、「どうしてアメリカってカエルのマスコットや置物やTシャツがたくさんあるんだろう?ケロケロけろっぴ売れてるな☆」だとか、Never Ending Story(邦題:ネバーエンディングストーリー。スピルバーグ監督作品)のいろいろなシーンを思い出したり、Splash(邦題:スプラッシュ。現代版人魚姫的ストーリー)で自分がトム・ハンクスの演じる人間だったり、ダリル・ハンナ演じる人魚姫だったらどうするか内的体験をしてみたり、と今日も「井のなかの蛙」にならないための小さな努力ややる気は続きます。

小事を成し遂げて威張る人になっていないだろうか?「井のなかの蛙」のように井戸から外に聞こえるように、(自分だけが美声と感じる)美声で鳴いていないだろうか?と考えることもしょっちゅうです。何において私の世間が狭いのか、何において私が世間を広げようとしていないのか、そんなこともばりばり考えます。

「関わりあわない責任」というのもあり、自分が本気でコミットメントできない物事や小社会や出来事や人々には、鼻や首だけ突っ込んでいいとは思っていません。野次馬根性がなるべくないように、本気でそこで起こる出来事や人々の気持ちを考えることに努めています。それでも本気さが足りなかったり、他人の立場に立てないのに自分の意見を身勝手にしていることもままあります。これは世間を広げて、「井のなかの蛙」でいたくないためのリスクです。誤解を大いにされることも失敗することも覚悟して、その按配やバランスを保ちつつ、今日も希望に向かって自分のスピードで歩くことはあきらめません。何も着手していなかったり、井戸の底にいるカエルに何か言われたくはないなぁと苦笑いをすることもありますが、こういうふうに感じることも「物事は個人・個別で考える」にあまり促してないので、アタマのなかで打ち消します。なわばりの大きさを比べっこするゲームには参加したくないですからねぇ。「大きいから細部が見れないんだ」とか、「小さすぎて笑っちゃう」なんて言いあうのは不毛です。個人こじんに自分に合った大きさのなわばりがあってもよく、それを基準にいかに大きくできるか?というのが大事なことです。

物理的に住んでいるとか仕事関係やその他で移動する、行動範囲を指すなわばりが第一義的なわばりではありません。もちろん環境というのも重要に個に影響を与えますが、すべてではないし、もっとも重要かどうかは客体である場所や風景が投げかけるものよりも、それをどのように受け止めて自分のものにするかという主体のほうにあります。なので、心の移動性なら不平等なく誰にでも可能です。ナマミはひとり一個で限界があることでも、アタマと心でする移動やなわばり拡張に制限はありません。

じゃ、みなさんも「井のなかの蛙」度チェックしてみてね♪おもしろいよぉ☆

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