Jan 5, 2006 に書いた文章です。

顕示:はっきりとわかるように示すこと。

最近のBlog流行のせいで、いろいろなBlogをチラ見して私がツーンッとハナにつくものは、この「自己顕示欲」の量です。私が日本に住んでいないあいだに、「自己チュー」が流行ったらしいのですが、その文化はどんどん受け容れられ、なぜかここで競争社会のように、自己顕示欲指数が上昇しています。

私の自己顕示欲は弱いほうであると、古巣の大学の心理判断で出してもらえました。もらったときには、「いやー、私ってアジア人なんだなぁ」と思ったのですが、他人への印象はまた違います。私がBlogを書いていることは、一重に自分のためですが、自分を世間に対して晒すためではなく、飲み屋さんやシンポジウムなどでは限られた人口としか語れないさまざまを、いろいろなバックグラウンドの人たちに発信することができるからです。受信機能がついていますが、私のやり方が悪いせいなのか、あまり書き込みは多くありません。私がひとりで自己完結しているからなのか、近寄りがたいのか、それは想像するしかなく、正確なデータは取れていません。

二次的には、商売を始めたので、近い将来、無料サービスと販売サイトについでに載せるための前哨戦です。自分としても、6年前には毎日まとまった文章が書けていたが、本当に今でもできるかどうか?というのを練習してみたかったこともあります。自分が有言したことを、ちゃんと実行できているかどうか?というのを、試すにはいい媒体です。

が、自分の話を書いているのは、あくまで世界中のひとつの例として、であり、自分の意見のバックアップ論拠の元の提示であり、自分を世界の中で優位な立場に置くことが目的ではありません。むしろ、ストーカーに狙われたり、露出によって抱えなければならなくなるリスクは高いです。しかも、見られているといつも意識して生きていくのは、私のそもそもの気質や性格にとってよく作用しません。裏表なく、誰の前でも同じ態度を貫きたい自分としては、それが誰に対してもできるかどうか?という試みでもあり、いつかBlogは重荷になっていくのかもしれません。

なぜ自分をアピールせねばならぬのか?この心理の元は、Self-Esteem(自己尊敬心)にあります。

Esteem: vt. 貴ぶ, 重んじる; …と思う
尊ぶ:大事なものとして重んずる。大事にする。

「世界は自分を中心に廻っている」というのは、ある意味真実で、自己というフィルターを通して、人はすべてを見ていきます。その核である自己を、価値あるものとして大切だと重んじることができるかどうか、は、人の成り立ちの中で大きな部分を占めます。できない場合の最悪は、自殺や自傷行為で、過度にしすぎているのが、この自己顕示です。しかも、やっかいに複雑なことは、この自己尊敬心は、他人と比較することで、簡単に増えたり減ったりします。人は目に入ったものを認識せずにはおられず、常に他人そのものや他人がしている行動と、自分や自分の行動と比較します。それにより、不正確な解析がなされ、心は萎えたり高揚したり、ととても忙しいのです。生物やPre-med(医学部前の必要知識)をよーく見てみるとわかりますが、生命体の法則性のひとつの素晴らしいものは、この「比較」にあります。感覚機能(視覚・聴覚・触覚・味覚・臭覚)のメカニズムは、コレなしでは働きません。この普遍的事実を使い、生活に取り入れられているものが、視覚ではTV、聴覚では騒音メーター、触覚ではオートの食器洗い機や掃除機、臭覚では臭い除去器具、などで、味覚は個人差がありますが、日々のグルメのポイントになっています。他にも、蝶番(ちょうつがい)やボルトやナットは人体の骨の仕組みから来ており、家中に人体と同じ仕組みが施されています。

が、比較は使い方によっては、とても害になります。

最も理想的なのは、過去(昨日以前)と現在と未来(明日以降)の自分との比較です。これなら、それほどに複雑なわけもなく、情緒のジェットコースターに乗らなくて済みます。これがやっかいなのは、自分が創り上げたジェットコースターで、自分が運転し、自分が乗客でもあることです。この仕組みは先天的に持っているものであり、環境から受け入れ成長していく態度がない限りは、システム開発はありえず、生活によく影響しない過少すぎる自己尊敬心と、過度すぎる自己尊敬心を作り出します。

(自己尊敬心の数値が高いことはいいことですが、その現れ方により実際は低いのだ、とみなされます。必要以上に自分を他人にアピールせねばならないことは、「不安」「自信のなさ」などに支えられており、自己尊敬心の量がむやみに多いことと、判定での数値が高いことは別ものです)

過少なものの代表は、殴られても踏みつけられても「自分はそれしか値しないのだから仕方ないのだ」と思い込んでいくことです。これは、今までのエッセイでたくさん書いてきました。

過度な量の自己尊敬心から来る、過ぎる自己顕示欲は、他人を傷つけ、陥れる率も高く、正しい情報を歴と披露しているかのような印象を与えます。屁理屈やフィーリングや感性だけで、この自己顕示欲の高い、自信を確固と持っている存在に、人々は弱いのです。ですから、私は「強い意見を述べるならば論拠をキャンペーン」をひとりでやっているのですが、効果が出ているかどうかはわかりません。

自己尊敬心と、実際の実力や才能や事実は、呼応しないこともしょっちゅうです。ここが陽炎のようなマジックを、印象として与えてしまう元になります。カリスマという言葉がありますが、アレもそうです。

カリスマ:(1)超自然的・超人間的・非日常的な資質・能力。預言者・英雄などにみられる。M=ウェーバーは,このような資質をもつ指導者に対し人々が人格的に帰依する関係をカリスマ的支配と呼び,伝統的支配・合法的支配に対する支配類型の一概念とした。
(2)転じて,一般大衆を魅了するような資質・技能をもった人気者を俗にいう語。

私が一時期お腹を抱えて大笑いしていたのが、「カリスマ美容師」「カリスママヌカン」などという狭義の流行語です。少なくとも私は魅了されていませんでしたから、一般大衆ではないのか?などと思い、あやふやビジネスのあやふや資質や能力の穴について、考えていました。人気があることと、実在の資質や能力は比例するとは限らず、比例しないケースのほうがずっと多いのです。その実質を見ることなく、カリスマと呼ばれることをうれしく思うのは、やはり自己尊敬心が低いせいです>質としての。

私は、資質や能力が伴わない、自己顕示欲が過度に強い行動群が大嫌いです。人に大いに迷惑をかけまくり、世界をさらに無意味に混沌とさせます。私が思うに、それは「おもしろい」ではないです。自己顕示欲が大いにあり、さらに資質や能力がある人は、自分という存在が調和しているわけですから、どんどん世界に影響を与えてほしいと願います。が、みんながスーパーだったら、誰も実際はスーパーではないわけです(映画 The Incrediblesより)。

本当にすばらしいのある自己顕示には絶賛を、そうでないものには冷徹な解析を♪私の態度です。

ですから、私が続けて読みたくなるようなBlogはここのところなく、雑誌もなく、ドラマもなく、尊敬できる新聞記者も少なくなり、ライターも、子どもの頃に比べたら減っています。私が賢く成長したのでしょうか?それとも、全般的に Me! Me! Me! が増えたのでしょうか?

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