さみしい→さびしい:本来あった活気や生気が失われて荒涼としている感じ、物足りなく感じる意。1.もとの活気が失せて荒廃した感じがする。2.欲しい対象が欠けていて物足りない。充たされない。3.孤独がひしひしと感じられる。4.にぎやかでない。ひっそりとして心細い。

誰か特定の人を指して、「さみしい人だね」と表現することがあります。これって本当によけいなお世話のような気がするのです。本人にぜひ言ってみましょう♪と私なら思います。飲み屋さんでひとりで酔っ払っている人、ぶつぶつ話している人、いわゆる世間でいう適齢期を過ぎて結婚していない人、子どもがいなくてだんなさんの仕事が忙しい妻、勉強が忙しすぎて遊びに行けない学生、友達が少ない人、いろいろな人を指していろいろな人が「さみしい人」と表現しますが、これって何なんでしょうね…。さみしい気持ちになったり、実際にひとりになることは、例外を除けばたいていの人にあることでしょう。

私自身は、どうしても私が踏み込めない領域を持っている人、どうしてもどうしても好きです。全部一生懸命表現したいという気持ちがかなりあるはずなのに、まだその奥底に彼自身あるいは彼女自身でさえもわからない何かが眠っているような感じがたまらなく深みを感じさせます。

なので、他人を「どういう人か」と表現するときには、側面・ただの一部であることを強調し、さらにどんなときにどういうふうにそうなのか、とできるだけ端的に話している人にわかるようにしたいと心がけています。人間が○×な人、という大きな傾向だけで決め付けられてしまうのって、何だかとても哀しい。しかも「さみしい人だね」なんて言えちゃうのってどうしてなのか、ぜひそういう表現する人に聞いてみたいもんです。

しゃれならいいんだけどねぇ>でもそれも特定の人に回数重ねるのはあまり得策じゃないですな。

孤独である状態を指して、「さみしい」という表現は意識せずに簡単に使ってしまうのではないかと思います。けれども、誰かといてそれでも心が通わないほうがずっとさみしいと感じる私はひとりをとてもエンジョイします。ネコ型などと言っていますが、本当に1日のうちにひとりになれない時間があると気が狂いそうになります。「そんなんじゃ母親なんか務まらない」と余計なお世話を言ってくれる人がいますが、私は自分の子どもを自分の手だけで育てようなんてちゃんちゃら思っていないので、見てもらえる人がいたりシステムがあったらばんばん外注します。もちろん最低限の危険がないようにして、ごはんを食べさせてくれたりやおむつくらい替えてもらえることは調べてから外注しますけど…。ひとり遊びができない子どもがもしも私のところに来てしまったら、それはそのときに考えましょう…。西さんが育ててくれると思うし(汗)。

私が24歳まで喫茶店に入れなかったのは、大勢のなかにひとりぽっちになるのがたいへんいやだったからです。喉が渇いていたら自動販売機か商店かコンビニエンスストアで缶ジュースを買ってぐびぐび歩きながら飲んだり、公園の芝生や河原に寝転がって飲んだほうがおいしいと思っていました。おいしいコーヒーを飲むという贅沢よりも、ひとりで飲むことは味気ないとどこかで思っていたのですね。今ならばばりばり喫茶店に入って、好きなだけコーヒー飲めちゃうけど。食事もひとりでするのなんて味気ないなんて思っていましたが、たまにひとりで食べる食事は極楽ですね♪家であればどんなかっこうで食べてもいいし、外であれば贅沢していて味に集中できる感じ♪飲み屋さんだってそうです。友達に全力投球しようとする気力が、ヒューマンウォッチングやスコッチやワインの味への集中へと分けられてかなりおもしろいです。知らない人と知り合うチャンスにもなります。そういう贅沢を私は知らなかったです。けれども、途中、それを知ってからひとりでどこでもすいすい行けてしまいます。

灯かりがついていない部屋に帰るのがさみしい?長いこと続くとそう感じるとか、ひとりになったばかりのときに感じるとかよく言われますが、それも人さまざまでしょう。私の場合はふたりで暮らしていてもひとりの家に学校から帰ってきてたから暗かったし、ネコが途中から登場したものの、ひとりだってきっちりごはんは作るし(きっちりじゃないけどファストフードやデリカテッセン三昧にはならない。だってもったいない・笑)、家のなかに入る前から「あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ」状態のアタマになっているので家に入るのはオートマチック状態です。そういやぁ、実家に居たときだって真っ暗な家に帰ること多かったですよ。父は2勤2休だし、母も勤めてたし、弟はやさぐれだったし(爆)。

これから別居して、留学生Oくんが居ても食事くらいはいっしょにするけれども、たぶん映画くらいはいっしょに行くけれども、そーんなに干渉しないからねぇ。空気みたいになるでしょ。居るだけで違うって?彼が日本に出稼ぎに帰ってからまたエッセイ書くよ…(汗)。本当に私はひとりが好きだ(爆)。

ひとりでいる状態を「さみしい」と直結して表わすのはちとお門違いである…←この意見は曲げないぞ。

独身だって楽しい人はたくさんいるし、結婚しててだんなさんが忙しくても子どもがいなくても楽しい人はたくさんいるし、教科書に脳みそ浸していても楽しい人はたくさんいるし、友達が少なかろうが(あるいはいなくたって)楽しい人はこの世にはたくさんいます。無人島に流されてもさみしいと感じる瞬間が少ない人はたくさんいるでしょう。食べるモノを獲ることのほうがヒューマンコンタクトよりも切実な問題で、魚も果物も獣も獲れなかったら死んじゃうわけで、さみしいと感じる実体がなくなっちゃうわけですから、順番としてはさみしいよりも「獲らなくちゃ」が先で、無人島だったらもっともっと過酷なわけですから。

その本人が何を以って「さみしい」と感じるのかは本当に個人差があります。それを評して「さみしい人だね」と特定の人を表現してしまうことの何が正義なのか?何がメリットなのか?わかりません…。

ボーダーラインかな?と思うのは(あいまいでもしかしたら本当にその本人もさみしいかもしれない、と疑えるもの)、自己申告のさみしい、が言えない状況に置かれているのでは?と感じられ考えられるときです。ま、そういうときは本人に聞いてみるのが有効です。けれども、言えない人っていうのもまたまた存在するわけで、その場合にはそれをも考慮に入れてみないといけません。

ん?私もあるよ。さみしいって言えないとき。こう、胸に荒涼とした砂漠みたいなのが果てしなく続いていてらくだもいなくてオアシスもなくて熱ばかりにうなされたり、チョモランマよりも高い山を食料と水なしで登っているような不毛を感じたりするときに。でも説明できないから、さみしいって言うのを端折っちゃうとき。けれどもそれはいつも自分のなかの問題ではなく、社会というなかでの人間模様に関してってことが多いです。人間はなぜ生まれてきて、どうして生まれて来てどうして死んでいくのか、という大きな命題ひとつだけを除けば。だからひとりでいるのが苦痛じゃないのだろうと思われます。

けれどもさみしさを感じている状態が私の全生活のなか、あるいは全感情のなかのどの程度なのかと言えば一部であるし、時間の流れとの勝負っていう停滞状態のときもあるし、私の全存在を「さみしい人」と言われる筋合いはないなぁと思います。

厳しい人についても「さみしい人」と表現する人はいますね。星一徹を孤独でさみしい人であるとか?←いいと思うんだけどなぁ。あと高倉健とかね←すんごいいいと思うんだけどなぁ。自分に厳しいからって他人に厳しいと限られてるわけでもないしねぇ。私もかなり他人に厳しくに見えるようですが、自分によりうーんと甘くしているつもりです(爆)。

究極の「さみしい人だね」というのは、万人に理解され難い人を指す場合があります。けれども、万人が理解できる人っているんでしょうか?実在するなら教えてほしいです。芸能人だろうが著名人である人々が何を感じ何を考えているのか、誰にもわからないプライベートな領域というのはあるでしょう。一般大衆である私たちひとりひとりだって、みな他人に理解され難い何かをそれぞれ持っていることでしょう。それが多いか少ないかは受け止める側の判断だけになります。正確な判断はできないことでしょう。

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