Jan 11, 2006 に書いた文章です

 

良心:(1)道徳的に正邪・善悪を判断する意識。(2)〔倫〕〔conscience〕善悪を判断して善を命じ悪を退ける知情意の統一的意志。その起源や妥当性に関して、生得説・経験説・批判説などがある。

私は正式に倫理学(Ethics Studies)を取ったことがないのですが、哲学の中でおおまかに、宗教学の構築基礎、他の社会科学全般の教養基礎などで、理解は充分に備えていると思います。

道徳:ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。

昨日の続きですが、法律で人を羽交い絞めにする以外に、反省や変化、自己成長・発達を促す道があるのかどうかというお話です。この道徳の意味はかなり説明をしているようで、決定的なところで大きく考え方の余地を残します。「宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの」とは、どうやら生きている社会の環境や内容がとても左右するようです。

生物学的な見地から考えると、そもそも先天的に組み込まれたものの中に、老化も含め、変化や成長をするキャパは明らかにあります。死亡時の脳細胞の使われ方を見てもわかりますが、確実に生きているあいだに成長し続ける余地はあるわけです。何かしらの大いなる傷害や障害がない限りは、ヒトは社会で生きていくにあたり、量や質の差異はあろうとも、良心はいくばくかは持って生まれ、そののちそれが増えるか減るかも本人次第・環境次第だということがわかります。

環境の中には、家庭・学校・職場・友人・恋愛などの人間関係の輪だけではなく、日々触れる読書やマスメディア、音や視覚や聴覚に訴えてくるものも含みます。さらに、疾病やアレルギーを起す、ウィルスや熱や湿気なども含まれ、その分類は、ヒトという個体として生きた本人の受け止め方によりさまざまに分けられることでしょう。

私は、Patricia Cornwellの検屍官・Kay Scarpettaシリーズを欠かさず読んでいますが、最新のもの”Predator” (邦題;神の手)は、読み始めて10章目が終わったところでストーリーがわかってしまいました。どんな精神病が出てきて犯人が誰だということが、こんなに早くわかってしまったのは初めてで、自分でもびっくりしてしまいました。11章目からは、自分の考えた通りの過去暴きの展開が繰り広げられ、最後まで読む気がしないほど、「あたってるだろうな」と思ったのですが、本は途中で止めたことがないので、読みきりました。私が著者にSyncしてきたのか、彼女のプロット力が落ちたのか…。

↑なぜこの話を出したかというと、このシリーズで扱う殺人者はほぼすべてが「精神異常者」なのです。精神だけではなく、過去、多毛症や性器異形など、いろいろな疾病が取り扱われました。私が、日本の事件でいつも思うことは、「まずはなぜ犯人の障害度を調べないのか」ということです。当然、現在の法制度では、「善悪判断ができる能力があれば裁かれる」のですが、コレはとても大切な当然のステップだと思うのですね。ある・なしの二進法ではなく、どうしてももっと細かくやらないのか?それにより、更正のチャンスや刑が左右されるのがフェアではないのでしょうか?裁判官がどう考慮するのか、というのは、社会全体の福祉問題でもあると思います。

たとえば、性犯罪歴がある人間は、データベースには登録されるが、地域社会に公表すべきかどうか、などの問題に発展していきます。性犯罪者のほぼすべては、「善悪判断はつくが、明らかに病気」です。再犯率はもっとも高い。たくさんの人々のためには閉鎖された場所で閉じ込められていたほうが安心なのでしょうが、ならば、なぜそれを助長するネットでの写真やサイトを自由に出入りできてしまう制度なのか、これもまた社会の責任の一端でしょうし、「どんな閉鎖的された場所」を設置するのかも、また社会の責任の一端です。当然、性犯罪を犯しやすい人々を、生物学的に研究することも入りますし、社会の一員としてその研究発表を理解することも含まれます。

その中に、「道徳・倫理観診断」を入れることは可能ですし、どの程度が隠せるのか、ということを審議することも可能です>脈拍や体温のほうが、声の抑揚よりはごまかしやすい。同じテストを相手の知性にチャレンジし、いくつかの他の質問に加え、数日に分けて行うことなどで、正確な数値を取るようにすることはできます。さらに、お金があればMRIで脳内を見ることだってできるのですから。染色体異常で、XYYを持って生きてこなければならなかった男性たちのことなども研究されていますが、犯罪者には「健常者用に作られている社会」で生きづらいことがたくさんあり、特に子ども時代には抵抗しきれなかったことが、たくさんあったのだろうと予測されます。

環境的なバラエティ・多様性が無制限にあることよりも、こういった数字やその他に表せて理解しやすいところから、なぜタックルしていかないのだろう?と、私は思っています。

ほんの20年ほど前には、Dyslexia(視覚が正常に機能しない)もわかっておらず、「学習障害を子どもが持っていなくて当然」というところから出発していました。実際に、学習障害にも種類がたくさんあり、その脳内ケミカルのインバランスは、薬ではなく、行動修正で治せることもわかってきているのですが、日本では薬を使う医師が多いことがとても残念です。

良心やモラル、道徳や倫理を学ぶためには、まず健康かどうかをチェックし、健康ではないのならば、その個体の範囲以内での社会適応への暮らしを模索していくのが理想でしょう。そもそも、WHOの憲章に沿うほどの健康人など、日本にはあまり見られないのではないでしょうか?朝の満員電車では、みなぐっすり眠れなかったのか、ぐったりしているように見えますが・・・。

良心やモラル、道徳や倫理は学べるのですが、学ぶための機能がすべて、きちんとついているのかどうか、足りないのはどこなのか、過剰すぎるのはどこなのか、しっかり測ってみる態度がなければ、ただの従順な子羊を求める愚民の育成に過ぎないことになってしまいます。他者との繋がりの歴史や、過去の人間関係での「原因と結果」の履歴、そもそもの気質と性格判断、得意な分野や不得意な分野、などなど、道徳心を問う前に、求めたいデータはたくさんあります。

ましてや、そのデータを取っている最中にも、怒りや軽侮を相手に見せているようでは、確実に相手はその環境からのインプットに呼応していくわけです。刑務所がもっとも端的な例でしょう。しかも、生まれ持ったものであれば、それは遺伝子の偶然や事故であり、本人には責任を問い詰めようがありません。環境のものであっても、親や教師からの押し付けならば、子どもに何ができるでしょうか?ヒトは社会動物であることを選んだゆえに、脳が発達しました。さらに、がゆえに、積み重ねの存在です。その連鎖をここ数年や、大人になってから本人だけが選択したものから考えるのか、ヒトが二本足で歩くようになってからのその個人の現在までに思いを馳せることができるのか、は、受け止め側の問題でもあるのだと、ひしと感じています。

それによっては、同情を禁じえないケースというのは、ごろごろ転がるほどあるのです。だからと言って、犯罪を正当化するつもりはまったくないです。が、もしもあなたがあちら側の岸に流されたら?私は自分が犯罪をこれからも一切起さないなどという100億円の賭けはしていません。

「すべての物事は繋がっている」のです。

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