2006年に書いた文章です。

この挑戦的なフレーズに「私は(違うという認識は)あるある!だいじょうび♪」と常に言える人には未だかつて出遭ったことがありません。そう言いきってしまう人、たまにいます。「ん?でもどうして自分のことを“おじさん”なんて言っちゃうの?」などと尋ねると、ちょっと恥ずかしそうに「そうだなぁ。自分の裡側から心底自分はおじさんだなんて思ってはいないのに、どうしてこんなふうに他人からの自分を抵抗もせずに受け入れちゃうんだろうなぁ」と笑い、乾杯になります♪

この「抵抗する」というのってなかなかのキーワードだと思いません?

学歴にしろ、社会的役割やメディアでの情報過多や年齢・性別もろもろの「理想の姿」「あたりまえの姿」「多数決の勝利像」に惑わされていることに“気づける”というのが、そしてそれに対して“何かをしてみる”というのが大切であると私は思っています。

結果的にどんな選択を選ぼうとも、自分にぴったり合うようなたくさんの事象から自分で考え出した、自分であとからも「全部引き受けます(きっぱり)」的な態度が生み出されるプロセスが、どこかですっこ抜けてしまっているから起きる悲劇というのに、あまりにも世の中みちあふれているんではないか?と、哀しく思う所存です。

たとえば、時計を選ぶことを例にしてみましょ。私が今ちょうど欲しいからなんですが(爆)。値段・機能・質・つける場所(ま、腕が一般的か…)・つけて出かける場所・製造元の態度や歴史・デザイン・イメージなどなど考えてみるとアタマぐるぐるになりますね。

値段はその持ち主がその高さ(安さ)の生活をしていると推測できるヒントになってしまいます。たとえそれがただの見栄であれ、お洋服や靴やバッグなどとのコーディネートばっちりやってればそこそこの生活レベルが語れてしまうわけです。でもどうだろ。すんごいお金持ちでもカシオのデジタルウォッチが好きな人もいるし(うちは金持ちじゃないけど西さんがそうなんだよね…)、生活が苦しくてごはんを犠牲にしてもおしゃれだけは痩せても枯れてもする人だっているし。それに国内で買うのと国外で買うんじゃ、「標準小売り希望価格」が高ければ高いほど格差があるもんです。大した参考にならないよねぇ。だからカシオのデジタルウォッチでいいことになっちゃうんだよ…(汗)。

機能もそうです。チックタックと鳴るほうが時計らしくていいと言う人もいます。日付なんかなくても使わないからいいとか、秒針はなくてもいいとか、ストップウォッチ機能がないといやだとか、アラームまで装備してあるのがいいとか、そのバラエティでどういう生活をしているのか、多少のヒントにはなります。けれどもその片方で、あるのに「宝の持ち腐れ」している人もかなりのパーセンテージでいることは確かです。

壊れない時計というのを作れる技術はもうあるそうです。車でも静かすぎるのでわざとエンジンノイズを室内に引き込んでいる会社があるくらいですから…(汗)。寿命が長いものが高品質なのか、年間での誤差が少ないものが高品質なのか、それは使う人の都合や目的次第でしょう。防水やら圧力プルーフやらいろいろな幅の質を備えているものがあります。大体ナマミの人間がどうして1000mも潜れるのかちょっと想像できない私が、アクアラングについても知識のない私が、スキューバウォッチに質を求める理由もないでしょう。

私はなぜか重い時計が好きな、時代後退人間です。「つけていることを忘れてしまう♪」というのはタンポンくらいでいいですな…(汗)。指輪時計やロケットになっているネックレス時計や懐中時計なんかもありますが、私は腕にずっしりないとだめです。しかも右利きのくせに右に時計をつけます。左は動かさないのでつけてることをつい忘れてしまって、時計をはめた状態で「すみませーん、今何時かわかりますか?」などというおまぬけを何度もやっているやつです…。右手なら動かしたときにちょっとした違和感があるので、ちゃんと時計が無意識に見れるっていう仕組みになっているわけです。そういう初歩的な重量を求める人間だっているんだよ…(汗)。

家のなかには時計がわんさかあるので時計は外に出るときしかつけません。車にもデジタルウォッチがあるので、駐車場についてからバッグから出してつけることさえあるくらいです。壁かけ時計やビデオやテレビについている時計、電子レンジやオーブンにまで時計があり、少し時間に支配されていない空間が欲しいってくらいですね。こういうとき近視な私はめがねを外してしまう、というのでそれを得ています。なので、外に出かける以外には時計はいらないのです。PCのこの画面にもついてるやん…。学校と買い物と遊びにしか行かないので(今は病院もだけどさ…)、ClassyでElegantな時計は必要ないですな。たまにいいとこ(爆)に出かけるときは時間を忘れたいので外してしまいます。

製造元の態度や歴史についてはパンフレットで見たり、デザインそのものを見たり、売れ行きを見たりと、いろいろな資料があります。長いあいだそのブランドしか追求していない人がいたりするとナマの証言が聞けておもしろいですね←飲み屋さん情報多し…(汗)。今はWeb検索もできるし、画像まできっちり見れるのでとことん追求してから買い物したい人には便利ですね。しかも態度に顕れる「保証期間」という手応えのあるおまけがあるじゃないですか、今時って。あれはなかなか便利な態度です。けれどもその保証期間流行のなかで、「うちはわざとつけていません。信用してください」という頑固なメーカーもあっておもしろいです。

デザインは機能と多少だぶりますが、自分が見て好きなもの、というのがもっと大きく表れることでしょう。感覚・感性の分野に入ってしまうので(デザインする人にとっては他の要素もたくさん入るだろうけど)、個人がどのようにそこにあるものを見るか、といういい指標なのかもしれません。

イメージは広告やら消費者になっている人たちの人となりや容姿やプレゼンテーションなどから受けるものです。それこそカシオのデジタルウォッチじゃぁ、そんなに強い自己主張ないですなぁ(爆)。時計もまた髪型や他の持ち物などと同様に、裡側の自分を表現する一端になります。けれども、それをフルに活用しようとする人もいれば、そのヒントを与えないように与えないように、と個性の薄いものをわざと選ぶ人もいます。

うーん、時計選びだけでもこんなに複雑だったんかい…。だったら将来の夢・職業・習い事・住む場所・住む家などなどの、もっと複雑なものはとうていこんなところに書けるようなもんじゃないじゃないですか。もっと直接的にナマミの人間が関わることなどはもっともっと複雑化が進みます。

でもこの根底にあるのは、やはり、「自分は何者なのか」ということです。「自分と他人は違う」という認識は、便宜上「日本人である」「女性である」などなどの参考資料として使うとき以外に、常に年頭にあってほしい事実です。他人や環境に影響を受けない自分というのは実在しません。野生のオオカミに育てられた子どもであれ、オオカミに影響されます。けれども「同じようになろう」という遠心力に巻き込まれてしまう前に、「自分と他人は違うんだよ」という大きな理解をしていないと、どんどんといろいろな瑣末な問題に対処するときにひっかかりや落とし穴になります。

それは「私だけは違うの。あなたたちとは違う特別に選ばれた人間なの」という優越感ではありません。みんながみんな、他とは違うユニークで特別な存在であるのだけれども、そこでひしめきあって暮らしているという簡単な事実です。違うなかから共通点を見出して僥倖であると感じるのと、同じであって当たり前だと認識しておいてから他人と違うことにおびえる恐怖とは落差があります。

勘の鋭い人はもう気づいていますね…。「お」なんかつけちゃう受験戦争が生み出す悲劇に便乗してしまっている事件がありました。それに刺激されて考えた次第です。アメリカでもわんさかあるんだよね。チアリーダーになれなかった娘の同級生と母親をいじめて殺傷事件になることとか、わんちゃんのコンテストや赤ちゃんコンテストにまつわる悲劇とか(ジョンベネちゃんとかあったでしょ?)。そのすべての根底にあるものは、パワーゲームであるような気がしている昨今です。細かい事象については言及したほうがいいことがたくさんあるのだろうけれども、いちばんの根っこにあるものは、この「自分と他人は違うという認識」に欠けた行為が積み重ねられてしまったことにあるんじゃないか?と考えています。

そして時計選び一個に悶絶する今日このごろです。これから大きな買い物をまだするので(車とかさ…)まだまだ悶絶は続きます。

社会に組み込まれないで生きていくことはほぼ不可能に近いことでしょう。けれども、それについて考え抵抗し、自分にいちばん合ったものを選択する余地は必ずあります。それについて難癖をつけられてもかまわないではないか、と聞く耳を持ちながらも思えるようになることもできます。

そんなことをつらつら考えていて、明日はこの続きを書けるかどうかは疑問…(汗)。