どう説明したら、これを優越感や自己満足や反社会分子の源と誤解されずに受け止めてもらえるのであろうか、と思いあぐねていた日々もありましたが、言い方ひとつで本当にどうにでも転んでしまうものです。発信側がどのような意図で発信しても、受け手の心にのみ反映されるという例は、夕べ西さんが午前3時までかかって読み終えた『月光の東』という宮本輝の著書にもありました。

この言葉、「月光の東」というタイトルひとつ取っても、人それぞれに考えることが違います。「月は東に、日は西に」と、苗字が西である西さんが言うとそれなりにまたおもしろいのですが、それを読み終えてからもずっと「ねぇねぇ、月光の東には何があるの?」と問い掛けていました。この本の内容はまた別の話ですが、本を読み終わってもこの一言を残していったある女性についてやこの言葉の意味はなぞなままである、という一例です。それは臨場していた人たちの受け取り方にのみ反映し、その本人の想いとはまた違うモノになる可能性も大いにあり、その果てしないふれあいを紡ぎつづけてやめてしまわないことこそが、私が望んできたことです。相手を疲れさせてしまうことは私の本意ではありませんが、疲れさせてしまった人が多いことに自分の未熟さを感じます。どうしてあそこで妥協できなかったのか、どうしてあそこで曲げて譲れなかったのか、と。  

「月光の東」にはさらに続く東が果てしなくあるのだ、と感じ考える私のその東の果てのスケールを懸命に説明しようとしても、あるいはそれは詮無いことなのかもしれません。間尺の違うものさしを取り出す魂や、間尺の単位が違ったり、向きや角度が違ったりしたときの、相手と私の根気や時間の感覚にも問題はありました。その挙げ句に、「あなたは自分のことをいつも他人とは違うと主張するけれども、どうして自分だけが見えていて私には何も見えてないと思うのか?」という一言にいつもおびえていたような気がします。私にとっては自分が見えているものを見てもらう努力をしてくれているだけでたいへんありがたく、それを理解してもらえなくてもその誠意だけに感謝です。相手が見ていることを丹念に説明してくれるその誠意にたいへん感謝し、それをどうにかして見たいと望める自分の体力と気力を考えるときに、「自分と他人は違うという認識」をしっかり発見します。

そこまで至る前に、自分と他人が見ているものが違うことが合意できてない場合があり、それではコミュニケーションを取っていく上で、どんどんと誤差が出てきます。そしていつしか、切れる別れるになっちゃうんだろうなぁ。それでも切らない私は、相手に切らせているのかもしれない、切らせるように仕向けているのかもしれない、とまだ大いに後ろめたくも思っています。

学歴社会がまだまだはびこる世の中でのパワーゲームに乗り遅れないようにと、幼稚園の受験をきっかけに他人の子どもを殺害してしまった人が実在するということに、私は何かセンセーショナルなことを受け止めていません。死というものは常に生のなかに存在するもので、生の終点であるとか、無に返るとかいう観念が希薄なせいもあります。小さい子どもを殺せる人間に対してはショックを感じ、犬や大人を殺せる人間に対してショックが少ない、という数量感覚を私が大きく持たないせいでしょう。どんな日常のなかにも非日常性を見出し、どんな社会のなかにも反動を見出し、どんなに正常機能しているもののなかにも異常機能がある可能性を思えば、このような顕れ方をしてしまった心の動きというプロセスのほうが大切であり、結果に対してただただ呆然とはできません。が、起きる事件に慣れきってしまえる、という感覚もありません。

まだまだ自我が完成への道のりの先が長い子どもに、受験をしたいという意志があるのかどうなのか考えたときに、私は既にそこで幼稚園受験というものの弊害を感じます。「どうせどこかの学校に入らなければならない義務になっているのならば、先に余計な苦労をしないように名門校へ」という発想に私自身は二の足を踏みます。36歳になっている私でさえ、名門校と呼ばれる大学に通っている重圧が肩に大きくのしかかっています。普段は気にしないでいられるはずなのですが、わざわざ大学名を聞かれたり、専門知識を確かめるような所作をされるとどうもカチンと来ます。私の世間の狭さや広さをこれで測ろうとする態度にもたいへんとまどいます。なので、まだまだ先の長い人生のあるだろう子どもをどうして子どものままいさせてあげられないところに背中を押していれるのか、たいへん不思議です。

みんながTiger Woodsのような天才で、親が与えた選択を順調に行ききれるという保証はなく、却って大海のなかに準備されないままにどんどん航海させようとしているように見えます。その準備が親にはできているのかどうかもあやしく、「トレンドや社会の仕組みに乗せられているのかもしれないよ、おいおい」と他人ごとながら心配してきました。

「子どもはねぇ、何もしないでいいって放っておいたら本当に何もしないのよ」と、親を実践している人たちから何度も聞きました。確かに私も愚にもつかないことばかりに時間を費やしてきた自分の子ども時代を想います。けれどもそれがよかったのではないか、自分であとから自分で決めたことに対して言い訳できなくなってきてよかったんじゃないか、と後悔のない想い出がたくさんあります。「何のたしにもならないことにムキになれる」というのも、私の少ない美徳のうちのひとつで、そのことによって培われたことも大いにあります。そうして放っておかれた時間に自分で何をしてきたか、というのが、私には宝物になっている、というのわかるでしょうか?手をかけてもらわないとダメな子どももいます。けれども、手をかけすぎてダメになる子もたくさんいます。

だからこそ、「自分と他人は違うという認識」が必要なのではないかと考えるわけです。親は子どもがどのような人間に育つかというバロメーターではありません。確かに大きなSignificant Others(重要な影響を与える他人)になる確率はものすごく高いですが、人間は子ども時代の親とだけの環境だけが育てるわけではありません。全盲などの障害を持っている親が子どもを産むことを躊躇するのは、子どもを自分だけで育てなければならない・育てるべき・どんな子どもになるかは私にかかっている、と考え込みすぎるからでしょう。どんな学校に行っても、どんな人間とふれあっても、どんなことをしても、人間の求心力というのをそれほど馬鹿にしていいものであるとは私は考えません。いろいろな違う他人とふれあうことで、えられる何かもまた大いにあり、それがまたまた人間それぞれをユニークにするものであると私は考えています。親は子どもにとって分身でも一心同体でも運命共同体でもなく、いちばん身近にいる他人に過ぎず、その違うという認識に欠けたまま、「名門幼稚園に入れる」「ピアノをさせる」と使役動詞をばんばん使っていることに私は歪みを感じます。

「ったくうちの子は何もやらないから、自分の部屋の掃除とお使いくらいはやらせてるのよ」というのを意味がまったく違うんじゃないか?と。

同い年であろうが、性別がいっしょであろうが、読めるアルファベットやひらがなの数が同じであろうが、好きな色がいっしょであろうが、よその子とうちの子も違う他人です。うちの子を自分と同じだと考える親が、さらによその子も同じであろうと、なぜか横並びをしてしまい、世間の風潮であるパワーゲームにどんどん巻き込まれ、将来を考えた上でやった親心がどこかで歪んでしまいます。同じじゃなくたっていいんだよ。まったくかまわない。同じだったら同じでいいし、違ったら違ったでいいじゃない。だめなんだろうか?

事件の登場人物の弁護に聞こえるかもしれませんが、あとからなら誰だって何だって言えるわけです。でもこれはみんなの心にある「自分と他人は違うという認識」の欠如が根底にあると私は考えています。そのへんで、「同じマンションに住んでいるのにどうして彼らのほうが裕福に暮らして見えるんだろう?」だとか、「同い年なのにどうして彼女はあんなに伸び伸び楽しく過ごしているんだろう?」とか、「同じ厳しい親に躾られたのに、どうして彼はあんなに自由奔放なんだろう?」などと、なぞをなぞのままにする羽目になります。そんな嫉妬や妬みは要らんことでしょう。自分と他人は歩んできた道やその折々で感じ考えてきたことが違うんです。だからそれを「自分で」体験できるように、自分で選び取れるようにやっていけることが肝心かと思います。

そりゃきれいな人を見て、かけらも嫉妬がないといったら嘘になりまっせ。だから私にもとっても「明日は我が身」ということです。「ねぇねぇ、どうしてあんなことができるわけぇ?」と思わず考えてしまったみなさま、胸に手を当てて、自分の心のどこかにあるどろどろした部分に想いを馳せてみてください。海馬を馴らすことができるのかできないのか、それは親でもだんなでも恋人でも妻でも友人でもなく、やっぱりあなた自身ですから♪そこにあるものをないなんて言わないでおいてください。「明日は我が身」の確率が増えちゃうだけかもしれないよ☆