Things to doに縛られず、気の向くままに過ごすということと、だらだらと過ごすことは違うことのようです。

じゆう【自由】

( 名 ・形動 ) [文] ナリ 

他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っている・こと(さま)。自らを統御する自律性、内なる必然から行為する自発性などがその内容で、これに関して当の主体の能力・権利・責任などが問題となる。

哲学的な意味では、自らを自律的に統御し、内なる必然から自発的に行為すること。外的自然からの自由、内的自然(理性や意志以外の要因)からの自由、他人による強制からの自由に分かれる。意志の自由とほぼ同義。

社会学的な意味では、社会集団が個人の自律的な判断・決定能力を発展させる構造的条件を備えていること。基本的人権のほか価値・規範体系の整備なども含む。 「 -な社会の実現」

政治的・歴史的には、時代によって異なる内容をもつ。古代ギリシャでは奴隷などと区別されたポリス市民固有の属性、すなわちすぐれたものへの洞察力を意味したが、中世ヨーロッパでは身分的特権の別名であった。近代のリベラルな自由概念は一七世紀の宗教戦争以来成立し、市民革命を経て強化・確立され、宗教的自由から思想・信条の自由が、さらにそこから言論・出版の自由が要請された。この過程で、権力と対立しこれを制約する自由という視点も出てくる。マルクス主義的には、社会全体が解放され、人格の自律が真に達成されることが重要視される。

物事が自分の思うままになるさま。 「三か国語を-にあやつる」 「 -がきく」 「 -になる時間」 「船の進退-ならねば/近世紀聞 延房」

わがまま。気まま。 〔「自分の心のままに行動できる状態」の意として漢籍にある。「英華字典」(1847年)に free の訳語としてあり、「英和対訳袖珍辞書」(1862年)に freedom や liberty の訳語として載る〕

 

実際に社会動物として暮らしているヒトは、本当の意味での自由など持ち得ない、というのが大前提で、国や血縁や、その後コミットした仕事や人間関係に縛られているわけです。そこから、わずかな時間、自由になるということは可能に見えるけれども、それらから解き放たれるというのは、生きていくことが不可能になってしまうので、やはり完全にはできかねるわけです。

 

縛られている自分を嘆き、そこからゲンジツトウヒする、と考えると、足がすくむとまでは行かずとも、なんだか憂鬱になってしまい、「どうせ本当の自由なんて存在しないのだから」と、だらだら過ごすことになってしまうんでしょうね。

 

この大前提をうまく受け入れるにはどうしたらいいのか?自分の国や家族について、しっかり考えてみることが必要なのでしょう。どの程度、束縛をかけてきて、支配してきて、時間や気持ちを拘束するのか?

さらに、人間関係や仕事では、どの程度の自律が求められ、どの程度の決定権を許されるのか、どの程度の意志の歪曲を強いられるのか?などなど、深く鑑みてみることが大切なようです。

そこでまたまた他者と比べて「まし」というマシ選手権に参加するとキラクになるという方を、私は留め立てする立ち位置にないですが、それはやっぱり自由からまだまだ遠いところにあるような気がしますけど、どうでしょ?

個体で立って生きていける範囲が広ければ、おそらく自由を宣言できる状態や機会、時間が増えるはずで、相手によってはものすごぉく自由を満喫できるはずなのですが、仕事や家族とのやりとり、国の成り立ちや構造、今後の方向性などや、同僚や取引先、上司などとの日々のやり取りと局面でのポイント、友人や恋人との関係性など、深く考えてみなければ、その自由満喫度の広さが、そもそも狭くなってしまうのですよね。

3Dに生きているワタクシもどの程度の自由度があるのか、今のところ不明なところも残していますが、仕事を選び、教える内容を選び、友人や家族すら選び、恋人も選び、自由を満喫するためにやたらと策謀家的な段取りをしている感じです(笑)。なぜならば、私は自由という価値に第一義の重きを置いているので、どうしてもこだわるのです。

そして、昨日の2017年の目標にもあるように、1日に2時間以上はひとりっきりの時間を持ちたいと考えているのです。その間、なんの罪悪感も持たず、そのときに脳裏に浮かぶ「やりたいこと♪」をやれたり、何もしない自分に罪悪感を抱かないようにできたら、サイコー!ってところです。年末年始も自由に過ごすことができますように☆彡

みなさまの自由もいつも祈っております!