2006年に書いた文章です。

 

障害者や差別や平均値などをここのところ書いてきましたが、私が送るメッセージの基盤にあるものが何なのか、一言で言えと言われそうで怖いなぁと思っています(爆)。あらゆる問題事項や細かな出来事に対する私の意見は、いつも「人それぞれ」だったり、「自分がしっかり♪」だったり、「善悪貧富長短などなどすべてを混沌としたまま受け止めて自己で情報処理をしようね」だったりとさまざまですが、そのバランスのいい「個人の尊重」や「自分がかわいい・自信と叱咤や憐憫や反省」や「見極める力の源」はやはり最後のところは自分だけで闘う領域であると思っています。

どんなにいいアドバイスであれ、どんなにいい人とのふれあいであれ、真実を選び取るのは自分自身でしかなく、その自分がどのくらい事実の素顔や顕れ方を見て、さらに応用していくのかはたくさんの「世間」や「情報」と呼ばれるものから選んだほうがいいことであると思います。もちろん能力不足であるとただの混乱になってしまうのですが、体系的なモノの考え方の糸口だけ身につけられればあとは応用を広げていくだけではないか?と思います。そしてその好奇心が広がりを見せて、世間はどんどん広くなり、情報は次から次へと生まれて、この終わりのない連鎖・Gyre(ジャイロ・曲がりくねった回転する環・渦輪)の旅路がやっと始まるような気がします。

人生を線で考えたり表わす人が多いなか、私はいつもGyreを考えます。いつも戻ってきてしまうんですね、初心に戻るためにはそれがいいと思っていますし、過去に対する感謝や未来に対する希望も生まれます。その裏表や曲線が私には魅力的で、生まれたときをゼロとして死ぬときを最後の点にするのはどうも抵抗があります。立体になっているあの渦の輪の多面体が、私には人生に思えてなりません。想像によってはいろいろな形が思い浮かぶと思うのですが、絵がないのでご容赦ください♪

その大きさについてを「器」という言葉で表わすのでしょうが、さいころくらいの大きさであれ、その環が見つかったなら、平面をなぞっているよりもおもしろみが増すと思います。視点をいくつも変えられたり、立場をいくつも変えられたり、生命体としての年齢を超えてみたり、性別や社会的役割も変えてみたり、そうやって好奇心を広げながら世間を広げてきて、Gyreを大きくしてきたような気がしている今日このごろです。しかもそのGyreの器のなかにはどのくらいの容積があるのか、多面体すぎてコロコロしているのでいつもはっきりは測れていない、というのもまたミソです(爆)。まるっきりの円でもなく、環みたいではあるけれどもまだまだ角張っているところがあちこちにあり取りきれていないという形、わかるでしょうか?

大きさではなくバランスの取れている一個であれば、私はまだまだ大きくなる可能性をはらんでいていいなぁ♪と思うのです。このGyreのアナロジーは私が何度か書いたWell-Roundedな意味です。スケールがでかいほうがいい、アメーバみたいな変則的な形のほうがいい、という意見もあるでしょうが、ある程度のまとまりはあったほうが自分がラクかな、という個人的な感想はあります。他人に迷惑をかけてつらいのはやっぱり自分であると思うからです。説明できなくて切ないのは自分であるからです。私は基本的に人類の善良さに希望を持っているので、Remorse(自責・呵責)がまったくないなんてことは一部の例外(理由つき)を覗けばないと思っています。

やることがたくさん山積みになっていると確かに好奇心は減ります。だからこそみなが口を揃えて「身体が資本♪」というのに異論があまり見られないのかなと思います。疾病や障害があることが日常であると、その均衡状態が崩れていることをここでは指します。コロコロ転がれないし、パチパチパチとGyreに電気を通せないって感じになりますね。健康はナマミの人間にはとても大切です。健康=心と身体のバランスが取れている状態、は個々によって違います。痛みや持久力が違うのと同じことです。私の場合は心がいけないことになっているとすぐ身体に出ます。けれども、純粋に身体に偏っている疾病だと把握できてなかったんだよ…(汗)。これからは気をつけるよ♪

どうしてネコにはこんなにキリのない好奇心があるんだろう?というのは英語でCuriosity Kills a Cat(好奇心はネコをも殺す)というイディオムもあるように真実です。飽きませんな、彼ら。何がそんなにおもしろいのか、追い掛けているとこっちまで感染しておもしろくなってきます。子どもも同じですね。何かを身につける代償として、大人になるにつれて好奇心が減ってしまうのは仕方の無いことなのでしょうか?ネコでも大人のほうが好奇心減りますしね…(あ、うどちゃんはそうでもない大人ネコです♪タンゴは万年大人になれません。ハイジは好奇心というよりも人間に見えないモノと闘うことが自分の使命だと思っているようだし…)。

目下椅子取りゲームをタンゴと展開中なのですが、彼はどうして私のPCの前にあるどっかりとした椅子にここまでこだわっているのか、これは本能、習性です。10日から2週間、長い場合でも3週間で我が家のネコたちのテリトリーは家内でも変わります。今、うどちゃんはバスルームのシンクに丸くなって寝ているし、ハイジは炊飯器の後ろであったかにしていますが、タンゴは現在5日目、どうしても何があってもこの場所から動こうとしません。羽毛ふとんまで譲ってもダメなんだよ。やっと寝かしつけたと思っても「ふぅむん」とか言いつつ戻ってくる…(汗)。

今のところの科学で理解されている部分においても、人間にも他の動物と同じように本能としての好奇心があります。視点によって違ってきますが、パブロフの犬の実験での成果は人間にも見られ、好奇心が「探索反射」「定位条件」の動因であろうとしています。ファンツやバーラインという学者たちはは「認識への欲求」は生後2・3ヶ月の乳児から存在するとしていて、性欲や食欲などの第一次欲求と比べてもマグニチュードの小さいものではないかもしれない、とまだまだ日々実験を続けています。

今まで慣れていたものとは違う、新奇な刺激に注意を向け、探索しようとするのは人間にもあることです。現時点で持ち得る、環境と情報とつきあいを通じて作られた「認知基準」(これは○×であると理解すること)と、出遭った対象とのギャップの大きさが、好奇心の有無(あるいは大きさ)に関連します。出遭ったものがあまりにも新奇で、今までの認知基準とのギャップが大きすぎた場合には恐怖や不安が生じて却って引け腰になって、好奇心は顔を出しません。見慣れ過ぎたものと遭遇すると、麻痺や退屈を感じて、同じく好奇心は顔を出しません。自分の持つ認知基準とのあいだにある程度のずれを持つ対象には、好奇心が生まれます。

ちなみに「怖いもの見たさ」というのは、認知基準とのずれが適度をやや上回るときの両面(知りたい、知りたくない)の価値観が混在する状態のことを言います。あるでしょ?そういうときって♪

「不知」も「慣れ」もこのくらい好奇心をコントロールしてしまうものなのです。好奇心旺盛な人はこの「怖いもの見たさ」の幅も広く、基準の幅にも深みがあるので、見慣れたモノのなかにも何か新奇なモノを見出せるのでしょう。そうそう、ネコと毛糸玉がそうですよ。ネコが見るハエや鳥もそうです(爆)。かと言ってショッキングなほどに恐怖も不安もないくらいの認知基準も持ち得ている、という具合でしょうか。いい気になってハヤブサに向かって行ったうどちゃん…、君の認知基準は「鳥」ってぇ形しかないんだね…(汗)。

日常に埋もれ麻痺している心(たとえば毎日子育てして家事をしているとか、会社に行って家には眠りに帰るだけとか)が一般に新奇なモノをピックアップできる可能性が高いような気がしたり、恐怖や不安におののいて腰が引けてしまったり、どっちが本当なのか、それも本当に個人差であることがここでわかりました。その個人がどういう「認知基準」を持っているかってことです。

好奇心を旺盛にして世間を広げたい場合には、Gyreを何廻りも大きくしたい場合には、「認知基準」に幅を持たせるトライをすることです。普遍的な事柄というのは確かに存在しますが、詳細を瑣末に分析することは大切なプロセスではありますが、コロコロ転がってみて、パチパチパチとGyreに電気を走らせてみることです。ある人の意外なところを知ったり、ある物事の側面を見れたり、認知基準に新たな情報が加えられます。それが真実かどうかを見極める力もつくことでしょう。混乱しているGyreでもいいではないですか♪コロコロ転がって渦を巻きながら、きっと元気である限り、平面でないおもしろいモノの見方ができるようになると思うのです。憂いも哀しみも歓びも楽しさも全部ぜんぶひっくるめて、平面でない、借り物だけの集成ではない自分のGyreを作り上げて、初心にしょっちゅう戻って、子どもにもバンバン返って、未来まで見たような気になって、どんどん大きくなれたらおもしろい上に儲けもんじゃぁないですか♪好奇心はあったほうがいいし、世間は広がったほうがおもしろいよ☆

そしてこのクソ夜中まで、タンゴとの椅子取りゲームは続いてしまいました…(汗)。さ、ベッドで寝よう(爆)。