2006年に書いた文章です。

 

私は人二倍くらい学校に通っているので、先生に遭遇した数はかなり多いです。教師というモノに幻想を抱かされてしまった環境にいた私のスタンダードに大きくかけ離れた人が私は傾向として大好きでした。母は医者のことを「お医者様」って丁寧に「お」と「様」までつけるんだよねぇ(爆)。先生はみな大学を出ていて偉いっ!と思い込んでいたし…。

担任や教科別の先生たちを含めると今まで遭遇した先生たち、200人は超えますね。アダルトスクールにも行ったし。小学校と中学校と高校の担任は全部フルネーム言えるし、インパクトがあった教科別の先生もフルネームまだ憶えています。けれど、日本で行った大学の先生の名前はほとんど憶えていない…(汗)。

どこに行っても自由で伸び伸びしていた私は、先生から好かれることも多かったですが、嫌われる確率もまたそれなりに高かったです。でも嫌われることに関して慣れてしまっていたのか、その教科の勉強の意欲が削がれるという弊害はあったものの、Self-Esteem(自尊心)がくじかれて立ち直れないとか、学校に行きたくないと思うようなことはありませんでした。家で話しをすると母は「あんたが悪い!言い方に気をつけなさい!」だったし、大きな流れとして「勉強ができる子どもだけが好きな先生」「自分が教えていることを理解できる子どもが好きな先生」は確実に当時から存在しました。でもねぇ、その何倍もの先生が「生き生きのびのびしている子どもが好き」でした。

けれども、そういう先生は「もやしみたいだな!おまえは!」と叱咤しつつ、いっしょにドッヂボールをやったり、飯盒炊飯で顔を煤だらけにしたり、身体でもって「生き生きのびのび」を見せてくれていました。私にとってはたいへんわかりやすかったです。これは自分が得意だったから、先天性に長けていたからか?と思っていましたが、実際体育が嫌いな子が「私さ、ポートボールだけは好きになったよ」とうれしそうに話したりすると「よかったなぁ。次は飛び箱だぁ!」などと思っていました。小学生が投げたボールを取れないと地団駄を踏んで悔しがるなんて、大人も子どももなくていいなぁと思っていました。イーブンにするために、先生が混ざるゲームでは相手チームの人数を減らしたり、いろいろ調整して平等のネゴシエーションを教わったこともあります。

「勉強ができる子どもだけが好きな先生」「自分が教えていることを理解できる子どもが好きな先生」も、もちろんできる範囲で一生懸命やってくれていたのです。でもやっぱり「大人VS 子ども」という図式にはめられてしまっている!という感想はぬぐえなかったし、高みから施して教えてもらっていることに感謝しろという圧迫感はありました。九九をやるのに指を使っている子がいて、その手をものさしでひっぱたいたり、「もっと数が大きくなったら足の指も使うのか?」と怖いトーンで怒ったり、その高みから見られているというヒントはたくさんありました。算数ドリルや漢字練習を私たち側の机に座ってやってくれる先生は、決まって体育も林間学校も子どもと一体化してくれる先生で、家庭科の調理実習に味見に来てくれたり、屋外でスケッチしているとひとりひとりに感想を言ってくれる先生だったという記憶があります。

小学校・中学校のときはPTA談合をやっている部屋を覗いたこともあります。先生と呼ばれることに照れていた私の担任や、「○×くんのおかあさん」と呼ばずに苗字で個人を呼ぶ先生は、やっぱり「一体化」な先生だったこともやたらと不思議でした。これらは偶然の傾向一致だったのか、それとも子どもなりの感性が人の力学を見据えていたのか、それはなぞです。

中学の学年主任だったこまつ先生は理科が担当でしたが、理科も教えてくれていたのですが、丸々1時間をテスト答案に書く字について費やしたこともあります。イなんだか人なんだかわからない文字では、知識があって正解でも○はもらえないとか、「見てもらうために努力はしたほうがいいとは思わないか?」とか、そんな話でした。うなずきました。その他にもやくざの話で丸々1時間質問に答えてくれたこともあります。オドロキだったのは「やくざにも善良な人々はいる」「人殺しにも善良な人々はいる」ということでした。そんなことを教えてくれた先生はそれまで居ませんでした。彼はまちがいなく私の恩師です。彼はきっぱり「卒業したって年賀状なんかくれなくてもいいんだよ。ここで私と知り合ったことを糧にできると思ったら使っていってください」と言っていました。それはコピーマシンが使えないで用務員さんを待っていたときでした。

私の高校は私立の女子校で、早朝登校をして掃除をするときに割烹着を着せられていました(汗)。あの学校の先生はほとんどみんな好きになれなかったけれども、いい先生もいました。恩師と呼べる人が2人だけ増えました。「ああ、食べるために先生やってる人って本当に実在してるんだぁ」と学んだいい場所でした。

アメリカの先生は「聖職」という言葉からほど遠い人たちばかりでした。率直に「ああ、先生はごみ扱いだから」とDiscussion(論議)したクラスもあって、いろいろな国から来ている生徒たちに「君たちの文化では先生という職業はどういう存在か」というのをおもしろおかしく聞いていた先生がたくさんいました。もちろん「それはなぜなの?」と言われても正確に説明できる語学力がなかったことが、今は残念です。

未だに大学に通っている状態ですが(現在は休学中)、人種が増え、選択肢や多様なモノの考え方が増えたにも拘わらず、やはり高飛車な先生は実在します。そういう先生の授業はまったくおもしろくはないし、その先生についているTA(Teaching Assistant)たちもなべてBrilliant(輝いている、キラキラしている、聡明)ではありません。きっぱり「Dr.と呼んでください」とか「ファーストネームで」ということで分けられるものではなく、その背後にある理由がまたおもしろかったりします。それは個々のケースなので臨場感をうまく伝えられません。

Community College(短大)に通っている頃に、評価にたいへん繊細な英語の先生がいて1700点満点で、私は90%のAに3点足りなかったのですが、見事にBがつきました。四年制大学への編入も決まっており、GPA(Grade Point Average)が満点だったこともありどうしてもAが欲しいぞ、と思っていて交渉したのですが、その3点にやたらこだわっていました。彼女の理由はフェアではないということで、休みに入っていたのですがクラス全員に彼女が電話をかけて、「きくみは3点足りないんだけどAをあげてもいいか?」と同意を取ったのです(爆)。すごい情熱でしょ?で、私は3点分のためにエッセイをもうひとつ書くことになりました。Extra Credit(余剰点数)のためです。まぁ、結果的にはフェアだったんだけれども、ここまでやらないといけないのかぁとうんざりはしました。けれども彼女が授業で繰り返し言っていたことが、今も私の英語のエッセイに生かされていることは確実です。

たくさんの先生に遭遇して思うことは、教師もまた人間で、人間としての弱い部分・みにくい部分をはらみつつ職業に当たっているということです。私が感謝しているのは、それを見せてもらえただけでも儲けモノ♪だったこと。プラス、知識というのは教えてもらうわけではなく、自分で集めて検討するものであるということを30歳過ぎたときにやっとわかりました←遅い歩みではあるかも?(汗)

職業以上のことを披露して、生意気な小娘だった私の将来を楽しみにしてくれた恩師たちのなかには、まだ教師を続けている人もいるし、停年を迎えた人もいます。日本で言われるいわゆる就学年齢を超えてもまだ大学やその他の学校に行っている私がこの先恩師と呼べる人にもたくさん遭遇しました。大学院のための推薦状を書いてもらいたいから言っているわけではなく(爆)、いくつになっても博士号を持っても学界で認められても、学習は生涯続くという大切なことを日々実感させてくれる先生はたくさんいます。私がひとりでも学習が続けられるための基礎を、想い出のなかでまだまだ与えてくれている恩師たちにも深く感謝しています。

でもそろそろクリスマスカード出しちゃいけないかなぁ>こまつ先生(爆)。

そうそう、AOLの「教育を考えるスクエア」のチャットにはまった理由は、やっぱり生涯学習の一貫なのです。ややこしい話が多いけれども、私はそのややこしいクモの糸を丹念にほどくのが好きみたいです(爆)。CLのあいださんとスタッフのみなさんに感謝♪