2006年に書いた文章です。

 

アメリカに住むようになってよかったなぁ、とひしひしと感じていることは、自分をどうやって表現しても否定されていないような気分のままいられることが多いことでした。それはHugs&Kisses(抱擁とキス)の挨拶でもわかるように距離感のバロメーターにもなります。アメリカ人だって誰でも彼でもHugs&Kissesをばらまいているわけではありません。Proximityという個人が必要とする空間が破られてもいいんだよ、という信頼や状況があってわきまえがある距離感の測りのくっきりした「試される時」になります。

過去1年、Temporary Disabled(一時障害者)になってから、私はたくさんの「小さな善意」の恩恵を意識しました。けれどもよく考えてみると、私の足が悪いから助けてくれていることではないことをひしひしと悟ります。私が杖やウォーカーで歩いていても同じように扱ってくれる場面と、プラスアルファの助けが必要であろうと推測してくれる一般市民の反応は繊細なものがありました。ここまでなら彼女がひとりでできるだろう、という判断と、これはやってあげたら自分もかなりうれしいだろう、という判断が自然に身に付いている人たちが多かったことに改めて驚いています。

その判断が、「私はあなたではないからはっきりとはわからない」場合には、きちんと May I Help You? あるいは Can I Help You?(助けましょうか?)と尋ねてくれることが私には気持ちよいことだったのです。

「テクノロジー開発が日々進む場所」と謳われるシリコンバレーに住んでいて感じることは、アメリカのDemography(分布)がかなり正確には反映されていない場所であるなということです。人種も多様だし、収入も多様だし、言語も文化も多様な混沌としたものをいつも感じます。最近ではスーパーで日本語を使って買い物をしている人々にも遭遇するようになり、「うわっ!」と驚いてしまいます。きゅうりに似たSquash・Cucumbers・Zucchiniの差がわからないようなので最初は英語で、そのあと日本語で話してみようと思っても拒否されることが多く、一瞬日本にぽーんと帰ってしまったのか?という錯覚に陥ったりします。アラブ系でもインド系でも中国系でも他の人種の人たちには拒否された記憶がほんの少ししかありません。小さな善意を迷惑だと思うのはなぜなんでしょうか?ものすごくForward(しゃしゃりでる感じ?)に受け止められてしまうのでしょうか?

私の育ち方では、まだまだ近所のおじさんおばさん、商店の店主や従業員がファーストネームベース、あるいは「お嬢ちゃん」と呼んで、今日の献立にまで話しが及ぶ暮らしをしていました。おかずが一品であろうがそれがバレることが恥ずかしかったというような風潮はなかったし、魚と肉がどの程度の割合で食卓に出るのかよく見ている人ならば簡単にわかったことでしょう。「今日は○×が安いよ」と声をかけてくれることはおせっかいでも何でもなく、善意の顕れ以外の何物でもなかった気がします。もちろん売りさばきたいというのもあったのかもしれませんが、そっちよりも倹約できるよ♪という情報を教えてくれていたのだと思えます。

私はその精神をひきずってウェイトレスをしていたため、社長でも社員でもないことも手伝って、「だめだめそれよりこっちのほうがおいしいし、お得です♪」なんてやっていたのでl、自分のしていることが「おせっかい」「でしゃばり」だとは思わないことが多かったです。実際、お客である立場だと自由に好きなモノを選んで拒否されてもいい、とお客さんがみなしてくれていたし、試してみておいしくて安いと歓んでまた来てくれたものです。どうして猜疑心を持つ必要がなかったのか、どうしてその小さな善意を受け止めてもらえたのか、その善意がToo Much(余分、多すぎ)だと思うときにははっきりと断れたのか、と考えるとアタマがぐるぐるしてしまいます。けれども選択肢が多くなりつつある20年弱前の日本のレストランや料亭で、私がどんなふうに働いているか、その店がどのような態度で商売をしているのか、環境と人を見る目が試されていたことに今と変わりはないような気がします。まぁ、イマドキは環境要因はもっと増えてきていて、それもピンポイントするのが難しくなっているのかもしれませんが、基礎はそんなに変わらないんじゃないか?と。

そのままの精神のままでたくさんの人と知り合い、拒否されることにも慣れようと努力し、それでも投げかけることは止めずに来れたことを私はしあわせだと思っています。

殻に閉じこもっていて「どうしてこんなことするの?」と小さな善意を迷惑だと思っていることを伝えられないよりは、小さな善意を善意として受け止められるほうが充たされた気持ちになることが多いですしね。伝えてもOKだよ、という環境がここにはあって、たまに傷ついたりもしますが、全般的にはとても善意にあふれた環境に私は身を置いています。犯罪率が増えていると心配してくれる日本の友人もいますが、私は危険なところに危険な時間に危険にさらされるチャンスのあるいでたちや持ち物で出かけないので、今のところはラッキーに過ごしています。

小さな善意を施されるばかりであげないのもどうかな?と思った私は、英語がわりとまともに話せるようになってからはバンバン話し掛けています。スーパーでのナマ情報や市役所での書類でない市民の理解度や、医者でのしつこい探求は花咲いていることが多く、私は「ああ、話してよかった♪」と思えることのほうが「話し掛けて失敗だった!」と思うことより何十倍も多いです。

坂道の多いキャンパスやCity(サンフランシスコ)で、老齢者や子ども連れの親子や障害者に手を少し貸すのはもう日常茶飯事です。その動機は自分が健常であることを誇示することでも助けて恩を売りたいからでも何でもなく、「私が困っているときもこうされたいよね。だから話し掛けて了解とってみよう」ってことです。そしたらどうでしょ、私が困っているときもちゃんと誰かが助けてくれるじゃないですか!←これはただの偶然だろうか?

観光でよそを訪ねる場合はたぶんコワイと思うのです。私も成田は少し怖かったりします(爆)。フィラデルフィアやニューヨークやLAの空港のほうが怖くないのはなぜなんだろう?と不思議だったりします。難民のような大荷物で空港の荷物引き渡しのベルトコンベヤにいると、でっかい白人男性や黒人男性が助けてくれます。おばあちゃんに荷物を引き揚げてもらったときには少し驚いてしまいました。「ささ、いっしょにやりましょ♪」とものすごい明るさなのです。私も「腰に気をつけて!」と真剣に自分のでかいダッフルバッグの片側を持って話しかけました。そういうたくさんの親切な人それぞれとはいつかまた逢うこともないだろうチャンスのほうが多いのだけれども、私はそういう人にもきちんと支えられてここまで来たなぁという感謝の気持ちに満ち溢れています。不思議と成田で助けてくれる人も日本人ではないんだよなぁ…(汗)。私が純血日本人に見えないからかなぁ…(爆)。

見返りを求めない一期一会の小さな善意、これ、いいじゃないですか。どうしてこれを流行させないんでしょ?私は推進委員になってますが、どうもこれを妨げる何かがあるみたいですね、日本という土壌では。Strangers(知らない人)の親切になぜか猜疑心を持つような世知辛い世の中になってしまっているのでしょうか?アメリカの都市部でもそういう現象はあります。けれども場所と時間といでたちなどのヒントを見極めてみんながこの小さな善意を失わないように努力している気がしてなりません。そして日ごろ小さな善意が受け止められなくてうずうずするとボランティアに出かけたりする人も増えます。

心のなかで想っていることもとても大切ですが、見せていいことはたくさんあると思います。この小さな善意はそのひとつで、私は知り合いよりももっとやりやすいことなんじゃないのかな、と思ったりもしています。どうせ二度と逢わないならダメもとで話し掛けてみてもね。手を貸しましょうか?って一言、いちばん最近言ったのはいつだったでしょうか?たくさんのGiving(あげること)をして返ってこないことを嘆く人にはなりたくないなと思います。あげることは既にその時点でしあわせをもらっていることですもんね♪