敬う:相手を尊んで礼を尽くす。尊敬する。

尊敬:他人の人格・行為などをとうとび、うやまうこと。そんきょう。

儒教の影響が日本人の文化には多く反映されている、と一般に言われます。けれども、私が考えるに、儒教のいいところを本当に理解して「おお!これはっ!」と取り入れたはずの物事があまりよくない、離れた方向にどんどん変化して行って、現代ではどうなっちゃってるのかなぁと思うこともたくさんあります。まぁ、変化していくのは必至であるし、古いからっていいもんじゃないですが、だったらばそれを「儒教から来ている・由来している」とは言わないでおきたいものです。確かに出発点はそうだから嘘じゃないけどさぁ。端的すぎる表現だすよ…。 (・・;)

儒教のなかの『論語』が初めて来日したのは、応神天皇のときが通説だとされていますが、日本の社会一般に紹介されたのは江戸時代に士農工商があったときのことなので、読み書きができる人からどんどんと上から下への「これはねぇ、ありがたいんだよ」というような浸透だったと想像できます。

だいたい、「仁」って意味、わかったんだろうか?義務教育が行き届いたイマドキの人だってわからない人いっぱいいますぜぃ(-_-;)。

仁:いつくしみ。思いやり。特に、孔子が提唱した道徳観念。礼に基づく自己抑制と他者への思いやり。忠と恕の両面を持つ。以来、儒家の道徳思想の中心に据えられ、宋学では仁を天道の発現とみなし、一切の諸徳を統(す)べる主徳とした。封建時代には、上下の秩序を支える人間の自然的本性とされたが、近代、特に中国では、万人の平等を実現する相互的な倫理とみなされるようになった。

礼:1.社会の秩序を保つための生活規範の総称。儀式・作法・制度・文物などを含み、儒教ではもっとも重要な道徳的観念として、「礼記(らいき)」などに説く。2.規範・作法にのっとっていること。3.敬意を表わすこと。その動作。おじぎ。4.謝意を表わすこと。また、そのために贈る金品。

忠:1.いつわりのない心。まごころ。まこと。まめやか。2.主君に対して臣下たる本分をつくすこと。

恕:1.おもいやり。同情心。2.ゆるすこと。

規範:1.のり。てほん。模範。2.のっとるべき規則。判断・評価または行為などの拠るべき基準。

ささ、どんどんややこしくむずかしくなってきましたね♪←なぜだかここで私は昔NHKで見た人形劇の『南総里見八犬伝』を思い出して歌まで歌っちゃって、さらに8つの文字まで漢字で書ける♪と歓んでおりまっせ(^○^)。しかも夜中の1時になるところですぅ☆ 答え:【仁義礼智忠信孝悌】

どうやら「人間には自然に備わっている本性として上下関係の秩序を支えなければならぬ」と思う気持ちを支えに孔子の教えを継承する時代もあったらしい。それを便利に使った日本社会も存在したらしい、ということはわかりました。

でも、でも、でも、待ってくださいよ。孔子が生きていたのは中国の春秋時代。552-472B.Cとなっていて、私たちが息をしている今現在から2500年ほど前のことになります。今も使える原理が含まれていたとしても、「すべてが正しい」と受け継ぐのは果たしていいことなのでしょうか?→物事を時間軸と環境変化への順応においてケーススタディする必要性。

さらに、テクノロジーが進歩した今、自然界(人間の身体の成り立ちを含む)の法則として、人間の本性という言葉が厳密になりました。この「本性(ほんしょう)」というのを、なぜだか=本能だと解釈している御仁がチャットのときに道徳について話しているときにいらして、私は説明するのに骨を折ってしまいました。

本性:1.うまれつきの性質。本来の性格。天性。2.本心。正気。

本能:うまれつき持っていると考えられる行動の様式や能力。動物が外囲の変化に対して行う、生得的でその種に特有な反応形式。

またややこしくなったか?(すっきりさせようとして話しをしているはずが…(-_-;))

本能というのは段階になっていて、食欲・排泄欲・性欲・睡眠欲などの身体を機能させていくためのものを第一次的欲求(生理的基本欲求)とし、それが充たされない場合には第二次欲求を充たそうとはしない、という法則などが備わっているシステムになっています。第二次的欲求が「安全確保」で、Being(存在)を維持していく目的を果たすため居場所の安全性への欲求が次に来ます。社会生活を営むと、第三次として「社会的」と便宜上されている欲求があり、健康で安全であっても孤独ではつらい、社会生活に参加したいという欲求が生まれます。それが充たされると、さらに第四次として、「価値・判断・尊重」などに対する生命体としてのよりよい存続に繋がるものを欲します。最後に「自己実現」を充たしたいと願い、感じる部分を考えたのちに実現させたいという欲求へと発展します。

「ふぅん、じゃぁやっぱり道徳だって本能の一部じゃん?」と考える?間違えないでもらいたいのです。道徳心を持ちたい、秩序を求めたいという気持ちは本能の発展した展開部分のひとつです。

道徳とは○×である、と形づけたい欲求が本能であったとしても、A=道徳である、という本能がDNAに組み込まれているわけじゃないんですね。だったら世の中もっとすっきりしている…。これこれこういうものが正しい人の生きる道ですよ、なんてマニュアルがあったらすごいラクでしょうねぇ。敬うというのも「こっからここまでが敬うの範囲。このなかに入ってればあなたの本能はOKよ♪」じゃないわけです。生命体、個体として存続していきたいという欲求と同様、「どのように生き延びたいか」というのは本能は示してくれません。本能とは「こうでしかフィジカルな生命体が機能しない」という範疇にあるものを指します。

社会生活を営みたい、というそれ自体は本能ですが、「上下関係を持ちたい」というのは本能じゃないっすよ。他人に従わないと社会から排除される、身の安全がなくなる、ごはんが食べれなくなるかもしれない、という動機から上下の上に従ってしまうのは、第一次と第二次欲求を先に充たさないといけない!というシグナルで、それに対する不安であり、「誰かに付き従うこと=本能」じゃないです。

よしんば、私が秩序を持ちたい・自分と自分が位置している世界に整理をつけたい、と願う気持ちがあり、それが第四次欲求であるとしても、「このように整理したい・こういう秩序が私の生理的本能が欲している理想の形である」というわけじゃぁないわけです>しかし、私はラクになりたいがために秩序もいいとは思うんだけど、やっぱりChaotic(混沌)をつい選んでしまう質ですな。

みんなが双子みたいに、同じ段階を同じ時期にマニュアルに沿って実現していけたら、そりゃぁラクですよ…。ラクをしたい、というのは本能です(爆)。身体に余計な負荷をかけたくない、身体の存続を実現したい、という本能を支えに、秩序に従っちゃえばごはんだって食べられるよ、と理解しちゃったら無駄な努力はけっこうたいへんです。でもそれが本当の「身の安全」かどうかを考えられちゃうアタマであると、そんなことに従いたくないぃぃ!と暴れちゃうのも本能です。ただし、おなかが空いていたり、睡眠不足だったり、便秘だったりするとそれらを考える能力はぐーんと低下します。本能が本能たるゆえんです♪>だから段階的なのね☆

私個人は、ただでさえ複雑な世の中にパワーを与えまくってその秩序に従うのは、「身の安全を脅かすこと」だと感じ考えています。かと言って、私自身がパワーを持つことも危険すぎるとも思っています。ここで言うパワーっていうのは、年齢や物品や容姿や学歴に価値観をつけたOrder(秩序)を与えることを言います。どんな考え方であろうが、どんな道徳であろうが、どんな規範であろうが、尊重されないと立ち行かないと考えていますし、そのパワーはみなが持ち得ることであることが大前提です。

ゆえに、ただ年上だからってむやみに敬ったことは私個人はないです。これが社会崩壊に貢献している、と考える人の意見も尊重します♪かと言って、私は孔子の教えがまちがっているとも思っていません。それは続きに書きませう♪>ちと今日のは複雑すぎて難解かもしれないけれども、次回すっきりまとめるぜぃ!(・・;)