1999年に書いた文章です。

いやぁ、久々の刺激でしたね>日本での「あーせいこーせい攻撃」(化粧品メーカーじゃないですよ♪)。さすがに日本人駐在妻のあいだでも、そんなの頻発しないです>過干渉アドバイス。

ま、それを嫌ぁぁぁぁ!と感じる根源はたぶん母との差異にあるのですが、私自身が苦手だと思っていること・嫌だと思っていること(掃除などの家事一般及び手間暇がかかる読書や勉強以外のなかなか結果のでない作業、パッキングや整理整頓など)をやっていると、やっている端から横で、「あーせいこーせい」が始まってしまっていたわけです。ぐちぐちねちねち言われるのが嫌なので、最初から「じゃ、やって♪」ということになってしまい、このような家事一般ができない娘が世間に出る、という仕組みです。我慢してやらせてくれてたら違う娘ができたのか?うーん、それはやってみないとわかりませんね。でもこれも仮説その1です>なぜ私が家事を毛嫌いするか。

子どもの性格というのもあり、もしも私がやたら温和で従順な子であれば、、言われることに対しても「ああ、そうかぁ、こうやるのかぁ。ありがとう♪」と心の底から思えるのでしょうが、何たって生まれたときからの気質が独立型負けん気カラ強気旺盛なので、誰かに自分の縄張りにある範疇のモノを指示されたりするとだめです。それは今も変わりません。なので、他人の縄張りに入るときもきちんとノックをし、Come In!と言われて了承があれば入ります。←でもこれが「エセWelcome」だったりすることもあるのに、そこだけ素直な私はどうもこの社交辞令のWelcomeと真性Welcomeがわからなかったりします。(-_-;)

そしてはや36年、こういう娘と知りつつ「自分が変わったほうがラク♪」と思ってきた母は、その気質を無理矢理捻じ曲げるでもなく、「あああ、おねーちゃんはできないから私がやるわ、速いから♪」などと、そそくさ私の範疇にノックしてきます。で、ノックされるとどうも居留守を使えない私は、「じゃ、やって♪」となり、母がフィジカルに存在するときには「いいように立ってるものは親でも使っている状態」をいつも展開しています。人工透析をしている叔母に対してもこれをやっているので、知らない人が見れば私はただの人非人でしょう。だるさが見える叔母をメイドのように使っている、と見えなくもありません。彼女がやりたいことをやってもらっているだけなのですが、どうも彼女を手で制してまでも私が動かなくてはならないのが日本の慣習が求める正しい姿なようです…。>ここで、「あーせいこーせい攻撃」を叔母や母ではなく、第三者から受けるのがどうも解せぬワタクシです。

いいのよぉ、母や叔母がいないときに何かしら私の苦手な事象・事柄が発生したときは、涙流しながらだってちゃんとやってるんだから…。>掃除してるときなんかたまに嫌で嫌で涙流したりします。(-_-;) 西さんが居なくなって、留学生Oくんにだけ掃除させるわけにもいかず、ちゃんと掃除を競争形式でやったりしてるんだぞ。泣くこたぁないか…。

で、心が締め付けられて、アタマが痛くなるほど嫌なことなので一刻も早く終えてしまいたいわけで、次回それをやらねばならぬときのことを考えるとやっぱり合理的で熟練した技術を身につけようと必死になるわけです。この絶望を何とかポジティブな体験にしようとする意地が、ここまで私を生き延びさせてきた基礎になっているのでしょう。私だけの世界で誰にも指示されないで何とかやり遂げる、そして自分のために自分にぴったりする答えを出し、揺るぎ無い自分のシステムを構築していくわけです。

「あーせい、こーせい」と言われたことはきっちりアタマに入れて、それなりに分析してみます。それが私にとっていいのか悪いのかの取捨選択タイムですね。もちろんこれを省く人はたくさんいることでしょう。

 

自分で出す答えというのは、作業だけにとどまらず、いろいろな物事を見る目やそれに対処する段階にも応用されます。その折りに他人と自分を決して比較しないこと。比較してそれが習慣になって子ども時代を過ごして、その呪縛から逃れるのにたくさんの涙とたくさんの苦痛とたくさんの独白がありました。もうあんなスタンダードと自分を比較する馬鹿げたことを繰り返すのは嫌です。なので、他人に「あーせい、こーせい」と言われても、気にしないようになりました。一応は聴いてみるのです。そんなDisrespect(無礼・軽視)は持ち合わせていません。だから気になるんだろうなぁ、どうしてそんなことをいちいち言うのかってことが。

もしも私が「安直聞き流し、右の耳から左の耳」ができれば、「あーせい、こーせい攻撃」なんか屁でもないはずなんですが、ひとりひとりが発する声をどうも無視することはできないわけです。まぁ、ごっちゃになりながら、それにいちいち「どうして?」と思い、ときには質問攻撃をしながら、結局は自分でいいようにするしかないわけです。理由を尋ねたり、質問をしたりすると、それは私が相手よりも正しいことを確認したいからだ、と言われたことがありましたが、そうではないです。その相手にとってそれがいいことでも、私にとってはしっくりこないかもしれない。でもアタマから決め付けるわけにはいかないからコミュニケーションを取るわけです。そうして遠慮して流したままでいて、自分にぴったりした方法や考えや答えができないでがんじがらめにされている気分になっている人を、私は何ダースも知っています。

そういう人たちに、私までもが「あーせい、こーせい」と説教したり、口を挟むのもおかしいことだと思うので、まずはIndependent(自立的)な個になることが基本であることをわかってもらえるように試みてみます。それがいつもなぜか小賢しいと誤解されることもあり、見当違いなことを言っている、簡単なことを難しく話している、理想を話している、と思われても仕方ないよなぁ、とため息つくことになります。

どんな答えが出ようともそれが自分でしっかり考えた揺るぎ無いものならば、他の誰かと同じであろうが違っていようが、そこに重要性はないと思われます。その同じさ加減、違いさ加減、さえも微妙なところで、そんなことを悶絶するだけ時間と労力の無駄。そのプロセスで、自分が何をどう考え、どう行動に移し、どんな結果を想定しつつもその通りになったかならないか、という答えまでのたどり着き方が大切です。そういう意味で、「常識的には」「普通は」というのは何の助けにもならないです。物事を見る参考資料にはなりますが、それが必ずしも同じ因子が重なってでの結果なわけでもないです。

その場だけの応急処置であれば、自分の縄張りに他人が入ることを毎回許し、指示を仰ぎ、それに従順であることは有効かもしれません。あるいはまったく他人にゆだねてしまうとか。とりあえずは切り抜けられる>私のパッキングもそうだ♪

けれども面倒を見てくれる人がまわりに常にいるわけでもなく、その人の私への気持ちが変わることも大いに有りで、そんななか、他人をアテにしていくわけにはいきません。泣きながらだってパッキングもしないといけないし、掃除もしないといけません。自分で答えを出す大切さ、答えを出したことに沿って行動し、それがうまくいったときの達成感。これに勝るものは私にはありません。私には達成感というのはかけがえのない宝物です。

他人にもらった答えならば、あるいは他人がよしとするものを心から納得せぬままに自分の答えだと錯覚したまま行くならば、この脳内ケミカルの分泌変化まで起こる達成感という陶酔は得られないです。>あ、思い込みが激しいという得な性格があると自分で得た答えだと思い込める、というケースもありますが…。

そして私に過干渉したかっただろう母は、自分のために何かをせざるを得なくなりました。気持ちを紛らわせるために干渉してみた父は逝き、弟も成長しました。今度は孫ができ、どんな干渉をどんなふうにしているのでしょうか。彼女も彼女の縄張りを築き、それがどんなふうに攻防戦を繰り広げているのか、まだまだ彼女自身意識しているふうではありません。彼女は自分で答えを出せる人になっていると私は勝手にみなして扱っています。それが酷だと言う人もいますが、そうでないと私はフェアな人間関係は誰とも築けないと思っています。

その答えははたして他人の尻馬に乗ったものか、他人に多大に影響されまくったものか、他人の意見をきちんと聞いて自分で考え抜いて引き出したものか、もう一度確認してみてください。そして、考えるだけではなく、出した答えを行動にぜひ反映させることができるようまたまたアタマと心を使って果てしない行脚を続けていってください♪>けっこう疲れるんだけど、これが爽快な疲れなのよ☆

この人が『菊と刀』を書いた人類学者なのです!