現在読んでいる本が、なぜか本屋さんで目に付いてしまった『「病める家族」、その精神病理~依存の心理と自己中心の心理』です(浜松医科大学名誉教授、大原健士郎著。講談社+α文庫。なぜか肩書きも表紙にしっかり入っています、私が意識的にここに書いたわけではないです)。なぜこの本を手にとってさらに買ってみたのかというと、長い日本逗留で続発しているさまざまな事件が「家族形成」や「個人が育った過程」、「親の教育」に焦点が当てられるのが圧倒的だというのに、ブラックジャックのピノコみたいにびっくりしてしまったからなのです>この顔がわかる人は想像してみてね♪

「ええ、ええ、みんなして親のせいにしてくださいよ」なんて開き直って思えない私は、もうちょい日本人が捉える家族像について考えてみようかなぁ、なんて思っていたわけです。AOLのパブリックメッセージボードを書いていたときも、こちらで駐在の奥様たちがお子さんたちを育てているのを見ていても、たまに日本に帰って自分をメディアに漬け込んでみても(おいおい、きゅうりや大根じゃないよ…)、私には、何かネガティブなことが起こってしまった責任の所在の根源を「親」に押し付けている絵柄が過剰すぎて、共するとその過剰さが滑稽にさえ見えてしまっていたのです。

親になったこともないからわからないくせに、という反論、いつもながら論拠がなければ受け付けません。今回の帰国ではそんな人たちのなかに、森光子・泉ピン子他の実生活で母親になったことのない人のお母さん役がものすごいいいっ!と絶賛している人がいたりして、状況で騙されてしまったりする人がかなり多いことにも、学びました>アメリカの女優でも多いです、母親になったことのない人でも母親役をやらせたら泣かせるっ!って人。

そしてこのGW中に起きた少年犯罪。またもや親や家族の責任を話しているのね、とテレビ(毎日朝の1時間半と、週末にニュースフラッシュがあります)で見ました。AOLでも見てみました。やっぱり同じですもんね、親がうんぬん、という話題。

タイムリーなことに、留学生Oくんの英語のクラスでのエッセイのテーマが、”Who Takes Care of Children?”(誰が子供たちの面倒を見るか?)なので、彼のドラフト(完成品を仕上げるために何度も推敲するための下書きを重ねること)のためにも、アイディアを煮詰めるいい材料になります>彼はこれを読んでいる暇はないかもしれない。歴史(2教科分)のテストがあるので、「Tina Turnerのコンサート行けるかどうか…」と不安がっていたのです>がんばれ!

何度か書いて来たように私個人としては、子どもたちは「周囲のみんなで育てるもの」と信じています。彼らの好奇心いっぱいの心と、まだ隠されているネガティブな爆弾をもまるごと飲み込んでいても、まだまだおそろしく純粋できれいな心と、大人とは比べ物にならないほどのスピードで育っていく変化を受け止める身体を、この世のたったふたりだけの親と呼ばれる大人が、こんなにも大きな責任を肩に引き受け立派に育てるなんて、そんなんはじめっから不可能でしょ?そんなことを「はいっ!自信を以って命を賭けてでも遂行しますっ!」と、自分の人生を犠牲にしてまでも子どもを育てるのも、私にしてみれば大いにおかしなことであるし、だいたい子育てに「理想」や「正解」なんかがあるとは思っていないのでマニュアルに沿って育てられてしまうのも、ある意味では実験台のような気がします。

社会がまだまだ父親は外で稼ぎ、母親は家で家事と子育て、という構図が主流であり、核家族が進み、テクノロジーが浸透し、個人主義の履き違えが起こっているという状態では、母子密着が起こるチャンスが大いに生まれます。何たって「子どもを見ればどんな親かわかる」「親を見ればどんな子どもかわかる」なんてぇのが蔓延っているわけですから、その圧迫感は相当なものでしょう>似ても似つかない親子だって多数実在するっしょ?

尊い子どもたちのまっさらな命を、ふたりの親にだけ預けてしまえるのは不思議ではないですか?学齢が来たら、大きなコトが起こらない限りは「いい教育を受けたできのいい担任の先生」に分担してもらう?「いい親御さんを持っているいい育ち方をしているお友達」を選ぶように育てて、「いい教育を施すいい先生が揃っている学校」に入れて、「いいお給料をもらえるいい上司や同僚がいるいい会社」に入れるように育てて、「いい親御さんにきっちり育てられた伴侶」を選べるように育てて、その先に何の事故も不幸も起きないように祈るのかな…。そのそばで、身体を健やかに保つために運動の習い事をさせ、傍らで文芸・美術なんかの習い事をさせ、幅のある人間に育てるのかなぁ…。

それよりも最初っから、嫁姑問題も見せて夫婦喧嘩も見せていろいろなバラエティの人間の側面も見せて、ありのままの事実をその事実の素顔のまま受け止められる子どもから大人へとみずからが移行しやすい環境を、家族として揃えることでOKじゃないんでしょうか?家族の一員として認め、半人前なところはばんばん指摘して大人も同じく切磋琢磨しているところを見せ、みんな死ぬまで学習しているところを見せ、メリハリのついた暮らしをすることでは、犯罪を起こす病理を沈静化させておくことはできないんでしょうか?

私が不思議なのは、「理想の家族像」などを固定して作ってしまったら、それから外れてしまった不運な子どもはどんな想いを抱え、先の長い人生を重い足取りで踏みしめていけばいいのでしょうか?その理想像を踏襲するために、愛のない再婚をする大人が増えたり、何らかの事情で子どもといっしょに居ることを選べなかった人たちに生涯の罪悪感を深く根づけるのは得策なのでしょうか?シングルマザーやシングルファーザーが暮らしやすい世の中にはならない足枷を助長するような思想や行政が定着するのはいいことでしょうか?

私たちがどこか少しずつ狂ってしまっているのは、他人に見せ付けられた「理想像」との比較を自分に無意識であろうが意識的に課していることから来ていることをみなそれなりの圧迫を感じていることの成果だとは思わないでしょうか?そこに折り合いをつけながら毎日をなるべくしあわせに楽しく暮らしているはずなのに、なおも十字架を重くしようとする方向性に私は疑問を持ちます。本当に私たちみんながそれさえ遂行すれば必ずしあわせになれる、というような理想の家族像、みなが私にぴったりと思える家族像が実在するんでしょうか?私はそんなものがあるとは到底思えないわけです。

たとえ生みの親がおらずとも、片親だけであろうとも、それが父親であろうとも母親であろうとも、その大人に考えられるだけ、表現できるだけのありったけの愛を注ぐことができ、理想像に子どもをからめとり自主性を失わせるよう仕向けることがなければ、私はそれなりにうまくいくのではないかと思っているのです。そこにおじいちゃん、おばあちゃん、兄弟姉妹がいようがいまいが、愛を注ぐ親代わりになる大人がいれば、それが生みの親で二親が揃っていなくても私は子どもが不憫だとは思いません。養護施設に入っている子どもすべてが不憫でしょうか?親が離婚した子どもはすべて不憫でしょうか?同性愛カップルに育てられている子どもは不憫でしょうか?親と死に別れした子は不憫でしょうか?明るい未来はみなにあると思います。親がいるかいないか、それだけでその子の未来が測られてしまうほうがずっとふしあわせなことではないですか?

生まれる場所や性別、親のありなしやどんな親のもとに生まれるか、いつ生まれるか、本人にはまったくコントロールできないことで、すでに彼や彼女の評価がなされてしまっている。これは私にとって、たいへんに歪んだ状況だと思うのです。彼や彼女が育っていく過程で《獲得》したもの以外のことをまるで人間性の大々的基本のように評価する世間は、どこか間違っていないでしょうか?

そして彼や彼女が自分なりに奮闘して大きく育っていこうとしている途中、彼らに自律性がないとみなし、いじり壊され、肝心なときに放っておかれていることも確かにままあることでしょう。人間にはたとえ大人であっても自分の意識下にないことに影響されることがあります。子どもの海綿体のような柔軟さならばなおさらでしょう。育つ過程で「○×ちゃんはお母さんがいないから」「お父さんがいないから」「みなしごだから」「親がお金持ちだから」「親が貧乏だから」「親御さんたちがいい学校を出たから」「お父さんはいい会社にお勤めだから」「親御さんに貧しくて教育も教養もないから」と呪いのように言われ続ける子どもたちのほうが、親がいるいないに関わらず不憫であると思います。また自律性ではなく自立性が多分にある魂であったとしても、このような「査定評価」をシャワーのように浴びせ掛けられ続けていれば、「査定評価」をみずからも好む人間になるか、あるいは大きく反骨し逆の成功に固執する可能性も高くなることでしょう。

「父親・母親がいて立派な家族である。教育方針をきっちりして子育てをしていくのが家族という単位に求められる姿である」という大前提からして私はかなりハンタイなので、きっとこの先の話はもっとわかりづらいことになるかもしれません。

私はたとえ幼くても自己が獲得する∞(無限大)の力を強く信じています。そのためにはその能力をなるべく損なわない環境、制限しない環境、広げすぎて求めすぎて混乱しすぎない環境を用意するのが家族である者の使命であると考えています。善悪や得手不得手や病弱・生涯・健康体やすべてを含めて、生命の持つ可能性を軽んじていくことは私にはできないことです。そのためには、「理想の家族像」はないほうがずっと可能性を伸ばす道になると私は考えます。しっかり成人してから、「自分がこう育ったのは親のせいだ」などと愚痴らないためにも、幼い頃から「世界は自分の目の前にある」ということをまわりの大人全員が認識している環境を用意することだけが必須であるのではないか?と思う次第です。