2006-04-15にアップした文章です。

業: (1)〔仏〕〔梵 karman〕身体・言語・心による人間の働き・行為。行為は必ずその結果をもたらし、また現在の事態は必ずそれを生む行為を過去に持っているとする思想は、インド思想に広く見られる。カルマ。羯磨(かつま)(2)人が担っている運命や制約。主に悪運をいう。 

いわゆる、「因果応報」の法則を、今の生涯分の範囲で考えたものです。

因果応報: 〔仏〕 前世における行為の結果として現在における幸不幸があり、現世における行為の結果として来世における幸不幸が生じること。

因果応報のほうは、輪廻転生を前提として語られています。とっつきやすいところでは、手塚治虫の『火の鳥』や『ブッダ』などで、魂に響き、脳みそに届く、情感と知識を得られると思います。

私は個人的に、因果応報もあったほうがステキだと思えるし、物事を見ていくのにシンプルでラクです。業(英語でのKarma)もあったほうがいいな、とは思います。死んでから生まれ変わるならば、なお一層、この生涯をがんばれます。先の保証があったら、目標になります。が、物事にはすべてが「理由」があり、起きているわけではなく、偶然や本人の意志にまったく関係ないこともあり、ましてや、本人の言動がそれを反映している結果ばかりではないことも、悲しいことに知っています。

ですので、天罰を受けない人々が、実力も知恵も教養も共感も倫理もなく、憂いがさほどなく暮らせている例も、山ほど見てきています。親戚のコネだけで就職を果たしたくせに、自分が優秀でコネなど使っていないと豪語し、1年の留学で大した英語を話すわけでもないのに、アメリカをすべて知っているかのように振舞う人。飲み会のたびにフィジカルなセクシュアルハラスメントをし、男女差別的発言を職場でも使い、女をとことん卑下するおっさんは、特に会社をクビになっても、親からの遺産で食べていけるから大丈夫なのだという人。親の病院帝国が安定しているために、自分は裏口入学で医学部に入ったことも認められず、22歳で600万のミンクをまとい、40万もするイタリアパンプスを履き、歩けないからとたった数ブロックでタクシーに乗り、自分ではお金を出さない勘違いお嬢様だった人。弁護士をリタイヤした夫で、日本人妻があまりにもきれいだったため、40代で勤めた日本の大会社のCEOにレイプされ、彼女を説得し、民事で訴え、日本円にして2億円あまりも手にしたというのに、弁護士に40%も取られたと怒り、さらにまだそのCEOをストーカーのようにつけまわしていた人。

(最後の人はかわいそうだと思う方もいるかもしれません。が、レイプされたのは妻ですから、お金は彼女のものです。民事の勝訴でのお金を受け取ったときに、「同件に関してのこれ以上の追求は今後一切しない」という契約書にもサインしていたのですよ。呆れます・・・。言質が取れない人柄なのです・・・。しかも弁護士だったのですよ・・・)

しかも、レイプされたくてされる人など、ほぼいないと思えます。もしも、業の法則が絶対であるとしたら、レイプされた人々は、自分でレイプされたがっていたり、自分でレイプを招いたことになります。そして、それを信じる人々(当事者ではない周りの人間たち)に、レイプ後、何度も何度も痛めつけられることになります。「彼女があんな服を着ていたから」「あんな時間に一人歩きをしていたから」「もっと丈夫な鍵にしていなかったから」「悪い男たちと平気でつきあっていたから」「お酒なんか飲むから」などなど、人の口には戸が立てられず、聞きたくない悪口で、何度も何度も傷ついていきます。

天災の被害も同じです。好きで地震が起きるところを選んで住む人々はいないでしょう。故郷を捨てることができず、そこに留まるチョイスがあることを考えることなく、選びきれず、いつか災害に遭う人々がいるだけで、ハリケーンや津波や噴火など、これも業の法則だけに占められていることではありません。結果論として、まだ警告状態のときに、「どうして避難しなかったのか?」と、当事者でない人は簡単に言えることですが、それも時と場合、個人こじんの事情によるものが大きく、メディアで報道されることには欠落しているものが大きくあります。そのニュースを額面通りに受け止めて、被害者をさらに追い込むような世論を生み出す人たちは、正義の塊のような顔をしていますが、「天災」「事故」「事件」には、因果や業だけで語れない、偶然やアクシデントなチャンスがつきものです。

もしも、私のKarmaが日本に留まり、貧乏暮らしを続け、いつまでも女の子らしく女の人生を歩むものだったとしたら、私は次の生があるとする因果応報の法則から撥ねられてしまうことでしょう。では、逆に、私のKarmaは、それではなく、今起きていることを生むために連続的に行為を重ねてきたのか?

考えるとぐちゃぐちゃになりそうですが・・・。

私は、運命反対論者かもしれません。が、論者などと言うとあまりに大げさ(爆)。なるべくラベル貼りには抵抗したいので、サイドを取らねばならぬ場合にのみ、強く言う程度です。「自分の運命はこうである」と決め付けた時点で、もう行動範囲が決められてしまい、成長度が決められてしまい、その範疇外にある物事を排斥してしまうわけです。選択するということは、選択しなかったことを捨て去るということですから。私は、日本に住むために帰国する気持ちは今のところありませんが、「将来のことはわからない」といつも言っています。母は、「いつか祖国に帰って落ち着いて住みたくなるに一票」を投じているので、母を100%否定することもなく、「そうかもね」といなしています。英語だけで暮らすわけではなく、やはり日本語がダメにならぬよう、こうして書き日本語も訓練を続けていますし、年に1回は漢字テストも自分で大げさに行います(笑)。本も日本語のほうが少ないにしろ、読み続けています。私がアメリカに住むことは運命だったとは思っていません。選択してきたことだと思っています。今後、Buenos Ires, Budapest, Niceなどに住まないとも言い切れず、しかもそれらが「絶対」「運命」「業」だとすることは、避けています。

私だけのことではなく、「いい伴侶にめぐり合えない」と嘆いている人々は、1.「その人にめぐり合えるための行為をしているはず」なのに、なぜかめぐり合えていない・・・。2. 「いい伴侶にめぐり合うKarmaをそもそも持っていない」ということになるのが、業の法則です。そんなこと、受け容れてしまっていいのだろうか?と、やはり不思議に思うわけです。

さらに、「悪運」「運が悪い」ということを、認めてしまい、白旗を出してしまうのは有効なのか?私のこれまでの経験則では、有効性はないですね。メンツを一時的に保ったり、失敗や不幸な結果の言い訳にも使えますが、あくまで一時的回避であり、倖せへの道のりは遠いです。

その時々の行為たちのKarmaについては、私はしょっちゅう考えています。自分が予測した結果が得られることが目標なので、それは業を意識したことではないのかもしれません。もっと科学的・論理的なことを追求しているほうが大きいのです。商売でも同じことです。が、どこで科学的・論理的な思考と、Karmaが交差しているのかは、はっきり言い切れないところが、社会科学範囲のおもしろさです。

他人を見るときには、本人のせいにし、自分については運命論をかざす人には本当に要注意です。私は少なくとも、こういった自分優位先行思考には、ついていかないようにしています。