2006-04-18にアップした文章です。

私は、この「もっともっと」をいつも連発したり、思っていたりする前のめりな子どもで、それは今も続いています。欲張りとも思えますが、キリがあることを知ってからは、大人の「もっともっと」に切り替えてきたつもりでいます←自分で思っているだけ?・・・。

私の遊び方は病理的なところがあったのか?とネガティブに査定してみることもあるのですが、全体で考えると、健全にフィジカルによく遊んでいました。真っ暗になっても帰りたくないほど、遊ぶのが楽しかったのはいいことです。子どもの頃不思議だったのは、遊んでいる最中に、「トイレタイム」をして、自宅のトイレに駆け込むと、汗がどどどーっと吹き出てしまうことで、その謎について理解したのは、小学校の高学年でした。それまでわからなかったって、やはり私はバカだったんだろうなぁ(笑)。

ゴム段ももっともっと。

縄跳びももっともっと。

ブランコももっともっと。

竹馬ももっともっと。

雲梯やタイヤ遊びももっともっと。

ボール遊び一般ももっともっと。

馬乗りや馬跳びももっともっと。

問題は、お友だちの親が厳しくて「もうご飯の時間だからねー」と先に帰ってしまってひとり残されてしまうこと。そうすると、ひとり居残りしても、どうしても、父や母から雷が落ちるまで外でひとりで遊べる遊びを見つけては、しつこく遊んでいたわけです。

私には、今考えると、Obsessive-compulsive phase(強迫観念症的時期)がかなり長くあり、お風呂ひとつ取っても、私には儀式でした。何をどこからどうやって洗い、お風呂に浸かるための時間や順番やその他の決まりがあり、お風呂上りの飲み物をどこでどう飲むのかも、おいしくするためのルールがあったのです。お風呂だけではなく、通学路の電信柱にしろ、呼び鈴にしろ、新聞配達のお兄さんへの挨拶にしろ、私は数々の儀式に囲まれていた、「けっこう堅いけど、結局はいい加減な子」だったようになつかしく思えています(笑)。

すまいるの息子のりゅうくんの話を聞くと、自分のそんな時期が甦ってくるのもおもしろいものです。記憶がない、という人が多い中、私はかなり鮮明に記憶があるんですよねぇ。

いつか、その強迫観念的、儀式にこだわる時期が過ぎても、私はやはりマイルドな程度、病気と診断されない程度には、平均値よりは、Obsessive-compulsiveなところがありますね。母が今、使いやすいようにキッチンやバスルームその他をアレンジしてくれている最中ですが、やはり母よりは「合理性」に執着している・・・。エネルギーを余分に使いたくない、といういじましさではないのです。合理的に物事をパフォームすることは、私の美観からすると、すばらしく整った美しいことなのです。

え?なのに、面食い度がズレてるって?(笑)そうかもしんない・・・。私の永遠の心の愛人は、Joe Sakic (Hockey player)ですが、最近美的にはまっているのが、Clive Owenです。イギリス人で、最近は、Beyond Border, Closer, Sin City, I’ll Sleep when I am deadなどに出ています。整った顔だなぁ、と見惚れてしまいますね。

が、私は生まれながらにして与えられたものに、それほどの価値を置いていないので、面食いはどうでもいいのです・・・。私がJoeを好きなのは、顔の造りではなく、表情ですからね。さらに、彼の人となりとホッケーの技術です。技術に人柄がちゃんと出ている。すごいことです。なので、やはり・・・。

ホッケーを見るのも、もっともっと。

になってしまうわけです。Joeは39歳ですから、もうすぐ引退です。が、私はやはり見続けていくでしょうし、Joeが引退後、何をするかにも興味深深です。

映画も同じことで、たくさんの想像力と創造力に長けている人々が、毎日こんなに楽しませてくれるので、見るのをやめるわけにはいかず・・・。

映画を見るのも、もっともっと。

学校を続けたいというのも、得意であることや、前のめりであること、病理的ではないにしろ、勉強の計画・準備・勉強そのもの・テスト・復習などの儀式ちっくなものがとても好きで、「試されている」けれども、「まだまだ試されていける」という可能性・機会の質と数を増やせることが、もうドキドキワクワクなのです。新しい教科書に顔をうずめて、思いっきり息を吸って匂いを嗅いでいるアジア人の大人がいたら、それは私です(笑)。シンナーやアルコールじゃないので安心してください♪

どんな分野であれ、自分の脳がしっかり働いていれば、この世に生きてきた人々の知恵の一部くらいは理解できるだろう、ととても楽観的なのです。ダメだと思っていた美術系の入り口、ほんの導入編にもこんな大人になってチャレンジするのはやぶさかではないですし、我流で身につけたコンピューターも、そろそろちゃんとした学校に行ってみるのもいいかもしれないと思っています。

学校に通い続けるのも、もっともっと。

が、「もっともっと」ではないものもたくさんあります。物質的欲望はとても希薄なのです。物事を合理的に短い時間で美しくパフォームするための、家電やその他は好きですが、それでもフードプロセッサーより、自分の手で包丁を使ったほうが速いので、それほど持っているわけではありません。真空パック器械はかなり気に入っていますが・・・。

お金も必要なだけにゆとりがちょっとだけ(ひとまわりかふたまわりがモットー)あればいいです。車もそれほどいいものは欲しくなく、事故に遭ったときに、足や手だけがもげて生き残ることがないような、車体とシャーシーが丈夫なものなら、特に高級車である必要はありません。家具も同じです。長持ちして掃除が簡単なことが大事(笑)。他にも「もっともっと」が要らないのは、数の勝負品。友だちの数も多くなくていいし、知り合いの数も多くなくていいし、旅行した回数も少なくていいし、数など、キリがなさすぎる問題です。在米の年数も同じことで、数の勝負ではなく、質の勝負です←だったらなぜHPに滞在年数を書いているかって?弊社の社員がみんなでトンチンカンなことをしたときに、ご理解していただけるように、です(笑)。

が、いろいろな「もっともっと」はまだ続いていきます。68歳の母でもまだ「もっともっと」モードなので、私はコレについては、年齢もさほど関係ないと思っています。