2006-04-22 にアップした文章です。

何でも映画にしてはいけないのですが、東条英機について描かれた映画のタイトルが、『プライド』でした。私は未見なのですが、きっと重いテーマを東条英機の人生や、当時の国風やその他に絡めて描いているのでしょう。私の大学の歴史-日本学の先生が日本語で見てエンジョイしていましたので、私も見ようと思っていたのですが、なぜかすっこ抜けています・・・。

プライド:誇り。自尊心。自負心。

誇る:(1)得意気なさまを示す。意気があがる。 (2)…という長所を持つ。 (3)ゆたかに暮らす。

自尊心:(1)自分を優秀な者だと思う気持ち。尊大に構える心。プライド。 (2)自分の品位を保とうとする心。プライド。

自負心:自分の才能に自信や誇りをもつ心。

私は辞書をコマメに引くのですが、日本語にそれほど自信がないのか?きっとそういう部分もありますが、話を展開するときに、読み手や聞き手とある程度の共通理解がないと、土台に不安があるのです。

しかも、プライドというのは英語で、それを日常化して使っている日本人の何を見ればいいのか?と英語を使う私はとまどったりもします。特に、ライオンの群れを指す名詞でもありますし、馬の気迫を表す名詞でもあります。ネガティブに使う場合と、ポジティブに使う場合の分かれ目が何なのか、文化的背景によってもかなり違います。なぜ、「自尊心」や「自負心」ではないのか?とボキャブラリーに対する、使い手の姿勢なども見たくなってしまうわけです。

私個人は、先天的に持って生まれた自尊心の高い人間でしょう。自分の品位を保つことにいつも注意を払っています。がゆえに、周囲には、自分は優秀だと勘違いしていると推測されることはあります。が、私は自分が何に対してどれくらい優秀なのか知っているので、事実以上のことはアピールする必要がないと思っています。さらに、逆についても同じで、何に対してどれくらい劣っているのかも知っていますので、それについても自己申請は正確にしているつもりでいます。その前者に対しては、自負心がありますし、後者に対しては自負心が持てるよう、改良していきたい、とこんな歳になってもまだ奮闘しています。キリがないよね、生きていくって・・・。が、プライドは、自己尊敬心(Self-esteem)と直結するので、理解しておいたほうがいいものです。Here we go…

品位:(1)見る人が自然に尊敬したくなるような気高さ、おごそかさ。品。 (2)金銀の地金や金貨銀貨の中に含まれる金・銀の割合。 (3)鉱石中の金属の割合。

やっぱり、金田一ファミリー様様だなぁ。この(1)の意味は、「自然に」を含蓄しています。なので、プラスとマイナスの自己申請である、強調しているアピールや卑下は、「品位」という言葉とは、やはり相反するものなのです。が、それでも、人は、他人からの評価である品位を大切にしようとする・・・。私も含めてなのかどうか?ここが問題です。さらに、誤解をして、自分の優劣をプライドという名の下にアピールしたり卑下して表現する人々は、いつも他人からの評価に怯えていることにならぬのか?

他人からの評価をまったく無視することは、社会生活を営む一員として、言語道断ですが、気にしすぎる・適度に気にする、のふたつの境目がどこなのか、はっきりわからぬまま、人々は社会生活を続けているのかもしれません。がゆえに、自分の能力や品位、優秀だと思えるところや、欠落していると思えるところなど、いつも気にしながら、目の前の相手によってさらに軸が移動し、収拾のつかない心のブレがたくさん生まれて、それを整理整頓しないまま、毎日プライドがズレて安定しないのかもしれません。まずはコレがひとつの論点;自己のプライドに対しての価値が環境や対峙する相手や状況によってコロコロ変化する。

母と食事ドキに話してみて不思議だったのが、「長く生きてきたわけでもなく、大した根拠もないのに、子どもの頃からプライドだけは高かったね」という台詞。母は、自分のことをプライドの低い人間だと思っています。はっきりした根拠もないのに、プライドが高い小娘って何なのよ(笑)。私は、両親をはじめとするあらゆる大人に、やることなすことを否定されて生きてきたという感があるのです。コレはダメ、アレもダメ、という連続。それでも、なぜか、小娘だった私は、自分のしていることを意気揚々と得意げに続けてきた、ということなのでしょうか?難聴だったわけでも、盲目だったわけでもないのに、よくもそんなに反抗するエナジーがあったよなぁ・・・。うーむ、けなげだ・・・。いや、「人の言うことを聞かない子」だっただけなのでしょうね(笑)。

母に「どうしてプライドが低いの?」と聞いてみると、「ずっと貧乏だったから」という即答でした。やはり、母は「比較の女王」なんだわ・・・。だから、整理整頓がすばらしくできるのかしら・・・??モノを形や大きさや使う頻度や色やその他で、分類しまくることができるって、やっぱり比較能力が高いのかな、と思う・・・。貧乏で「できること・試すこと」の範疇が狭められ、たくさんの実験や体験ができなかった母は、そのままプライドが低いままできたのか?彼女には抵抗するエナジーがなぜなかったのか?が、彼女が飲み屋さんや話せる相手に展開する会話は、まさしく、彼女の能力を含む優劣のアピールと卑下のドラマなのよね・・・。そこで、他人から同情されて喜び、すばらしいと感嘆されて喜ぶ。私は、彼女のこの感情システムに加担しないので、至って冷たい娘、と評価されています(笑)。

心理学用語では、このような状態のことを Ambivalence (アンビバレンス, 両面価値;同一対象に対する愛憎並存)と表現します。これがふたつめの今日の論点です。その強さの許容範囲のラインを、Threshold(閾(いき) ;刺激に対して生体が反応するかどうかの限界)と表現することが多いのですが、この場合は、自己に対する愛情と憎悪の相反したふたつの感情です。両極(二元)のバランスが取れていれば、うまく生活していけますが、どちらかに強く偏る状態に陥ると、心理的にバランスが取れなくなります。事故や事件はこんなときに起きる・・・。愛が強ければ強いほど、憎しみも強くなる、というのが、このアンビバレンスのやばさで、どんどん強さが膨張していく可能性があるわけです。

アンビバレンスの中での「安定」を求めるのは、技術を要するし、かなりややこしいので、私は自分用としては、secure(確固とした、確信した)な感情を、状況や場合、相手によって持つことにしています。私は、自分がそれほど複雑なことをわざわざやることに、有効性を見出せない、とても合理的な人間なのですね・・・。今まで苦労は買ってでもしてきたので、大人になってからは、「ただでさえ複雑な人生、シンプルにやっていこう」と思っている次第です。安定した私の感情が憎しみであることはまず少ないのですが(たぶん厳密に言うとゼロではない)、母に対しては愛でいっぱいです。20代前半まで持っていたであろう恨みや文句や不満など、風化・石灰化して、天然記念物か史跡になった感じです。

自分に対してもそうで、憎しみは持っていません。愛情はたんまりありますが、ナルシスティックな偏執的なものにならぬよう、気をつけています。母は、アンビバレンスなまま、けっこう倖せに生きているのですが、心に繋がっている彼女の脳を読むことはできないので、彼女が思うままにやってもらうしかありません。

書きたいことがまた増えたので、明日は、アンビバレンスの原因であろう、と言われている幼児体験について←だからと言って、私がフロイト派を師事しているわけじゃないんですよ・・・。