4/25/2006 にアップした文章です。

長々と書いてきましたが、これくらい書かなければ、どうやって結論に達するのがあまりに早急で、論拠もあいまいで、ごまかしているように思えたので、おつきあいありがとうございます。

大人になってからのアタッチメントスタイルを見てもわかるように、自己中心的になりやすいのが、アンビバレントなアタッチメントです。愛情を自分がかけたのだから、相手も自分に同じだけ返してほしい、という望みは、いろいろな考え方に余波を招きます。スタンスとしては、自分があくまで中心で、他人はそのコアな存在についてくるもの、という世界観。そういう見方も時としてはありですが、実際はそのように世界は成り立ってはいません。たとえ、人だけを対象にしたとしても、世界には64億以上の人間がひしめいています。ひとりのために世界は回っていないわけです。そのことを意識できるかどうかは、大きな分かれ目です。

自分の殻に閉じこもってしまうAvoidant(逃避型)よりも始末に悪いのは、自己から他人への働きかけや情熱が強いことです。それに戸惑う他人が増え、関係が続かなくなったときに、悲劇のヒロインやヒーローになる、という構図です。しかも、プライドは高いのです。Secureの場合には、投資した感情に対してのバランスが取れているので、それほどの他人への働きかけや情熱に対しての不満は起きませんし、Avoidantは、自ら働きかけることを躊躇している状態なので、迷惑行為はそれほど発生しません。ただ、このタイプの人に片想いすると、あまりのこちらの一方通行さ加減に疲れ果て、けっこう打ちのめされるんでしょうね・・・。

同一対象に対する愛憎の並存は、場面や時間軸、起きている事件そのものの質などで、たくさんの対処法を求められる、至って複雑な心持ちの状態です。簡単に顕してしまうと、「条件つきの愛」なわけです。条件が揃わない場合は、憎しみに簡単に変わってしまう。コレでうまく行っているカップルもたくさんいます。Antonio Banderas, Melanie Griffith夫妻は、「大声で叫び怒鳴りあいケンカをし、そのあとの仲直りがいいんだよ。絆をさらに強くするんだ」と公言していますが、当然、そのケンカが収拾のつかない事態になるという危険を孕んでいます。感情の起伏や振幅を愛する傾向のある性格であれば、これでもうまく行くのですが、疲れ果てないことが必須条件ですね。

私もsecureなアタッチメントだという自覚ではありますし、アタッチメントの心理テストをいくつも受けました。が、個人の性格診断では、感情の起伏がかなり激しいので、他者を交える人間関係においては、自分の内面の「さらけ出せる部分」「場面」「内容」の差異を身につけるのに、長い時間がかかりました。それが、10代と20代前半における、オロチのようにうねり曲がった暗い道のりだったように思えます。私のほうが条件つきではない愛情を示しても、周りが条件つきを求めているような、そんな誤解をしていたのでしょう。負担になる他人の愛情に押しつぶされそうになったことがままありました。モテるというのは、こういうところがつらいのです。まったくモテないことも悩みではあるのでしょうが、モテることにだってそれなりの悩みはありますね・・・。そして、「友だち以上ではないとダメ」だという相手を、こちらからバンバン切らねばならぬことになったわけです。本位ではないというのに・・・。同性からは、高飛車だとなじられ、私のハードルは勝手に高くなっていく。実際は、気軽にどこでも大口を開けて笑うおねーちゃんだったにもかかわらず、です・・・。

アンビバレンスについて考え込んだのは、熟年離婚のコラムでの、「退職金は誰のもの?」という統計を見たときのことです。わずかながら、夫側が20%未満「自分のもの」と答えたところを、妻側のおよそ70%が「自分のもの」と答えていたことに、たいへんなオドロキを感じてしまったことです。それまで、我慢し、献身し、時間を待ってきたのだから、退職金は自分のものだ、ということなのでしょうか?その反面、「妻と自分ふたりのもの」という夫側の答えが、70%ほどを示しており、このちぐはぐな、むしろ、対照的なバランスに、「結婚生活って・・・」という不思議をまたまた感じたのですね。

そして、この愛憎並存です。もしも、「お金をもらっておさらば」だとしたら、夫とは哀れな生き物です。なぜに、30年以上も毎朝早く起きて満員電車に揉まれ、社会の変遷の目撃者になり、子どもを育てる主導権も取れず、ずっと働き続けてきたのか・・・。

(私は、ウーマンリブ以降の男性の立場の弱小には、とても同情的なのです。同情してはいけないのはわかっているのですが、やはり自分が今の時代に女性に生まれてきてラッキーだったな、と思うゆえんです)

アンビバレンスな人々は、愛していると憎ったらしいの感情のふたつの引力を常に感じながら、その場所に相手に留まる傾向も多いのです。なぜなら、他に健全な関係が自分に見つけられるとも思えないからです。ちなみに、保険金や愛人や感情のもつれなどの動機で、配偶者や恋人などを殺す犯人の確率は7割です。特に妊婦では、9割と高い数字を示しています。

私は、西さんに対して憎しみを感じたことは、ただの一度もありません。「こいつぅ、憎ったらしーい!」というかわいらしい、おどけた感情はありますよ。とても得意げに大工仕事を披露したり、ハイキングで私を置いてけぼりにしてどんどん進んでいく配慮のなさとかね・・・。が、常に笑いを伴うものです。自分で自分に驚いてしまうほどの憎しみを感じたことは、未だに私は経験したことがないのだと思います。対象が人であったことはなく、システムや理不尽な歴史や伝統、犯罪そのもの、などで、心にしこりがずっと残るようなことは、今までありませんでした。

このアンビバレンスかもしれないという疑いは、「もしかしたら私って二重人格かも」といい大人になっても、平然と言えてしまう人々に多くあります。自然界においても、社会においても、たいていのものは二元論(善悪・男女・生死などの反対の性質を持つ事柄)で成り立っています。その両方のどちらかに決められない場合に、自分の心持や自分を「二重人格かもしれない」と疑うことほど、おもしろいことはありません。正確には解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder)と言いますが、世界人口の1%未満にしか見られないもので、しかも、98-99%が、幼い頃に、性的虐待を含む、生命の危機とみなされるトラウマを繰り返し受けている、という条件があります。しかも、この診断が正式に下されるまでには、数年の診療が必要です。ただの通院では診断できないという穴があるからです。学者によっては1%未満と言いますが、法的に死刑を逃れるためなどに使われてきた歴史もあり、実際のところは、0.01%にも満たないのではないか?という見方が強いのです。

そのくらい、ふたつの相反する感情のハザマを行ったり来たりすることは稀であっても、人々は日常生活の中で、そんな不安に押しつぶされてしまうことがあります。そういった人々は、アンビバレンスを多く持っている、と認識したほうが、暮らしやすくなるかもしれません。他人に対して、いわゆる「気分」で対応することが多かったり、同一対象に対して愛憎の幅がどんどん広がるのは、自分個人の心理健康にいいことはないですし、他人にとっても大きな迷惑です。長く健全な人間関係が営めるチャンスを、どんな先天性を持っていようが、誰しも持っています。それを自分の手でダメにしたままでいる必要はありません。

私が動物と常にいっしょに暮らしてもらいたいと思っているのは、この「条件つきの愛」ではない、「無償の愛」をいつもコンスタントにもらえてしまえ、それに感謝する気持ちが深くなり、自分もなるべくその無償の愛に応えたいと努められるのがうれしいからです。できることなら、私も無償の愛を、いろいろな人にあげることができる、ゆとりのある人間になれたら、と思います。

There is nothing ambivalent about meというのが、今のところの私の状況です。