05/04/2006 にアップした文章です

 

難しい問題です。敬語だらけでも距離感は縮まらないですし、あまりにカジュアルでも人格やモラル、歴史や世界観へのスタンスが問われます。

アメリカでは、ファーストネームベースにするのが距離感のベースラインになります。Mr. Mrs. Ms. 苗字、ではなく、ファーストネームで呼び合えるようになれば、そこそこカジュアルな関係です。

私は行きつけのお鮨やさんで、山ほどのアメリカ人や日本人ではない外国人と日常的に話していますが、その中でサンタクロースに外見がそっくりな60代の男性がおり、彼はみんなからニックネームの「サンタ」で呼ばれています。とてもわかりやすい・・・。

日本語だけが美しい仕組みを持っているわけではなく、英語であっても、敬語はあります。知ったかぶりをして、『英語には敬語が存在しない』などと言っている人には注意しましょう(笑)。助動詞を使い分けることにより相手との距離感を示したり、先に挙げた呼び名の敬称により、敬語をマスターすることはできます。が、留学生段階で帰国してしまったり、駐在員でも数年くらいだと敬語は身につかないようです。

Can I? > Could I? > Would I? > Might I? > May I?

と許可を求めるにも段階があります。学校の先生には使えても、銀行のクラークやスーパーの店員さんにはぞんざいなままな人もいます。特に、人のお宅で飲み物をいただいたり、お願いごとをしたりするときには、近い存在と言えども、きちんとした助動詞が使いわけられたほうがいいです。

そうそう、日本語と同じなのです。が、日本語が難しいのは、「しきたり」「儒教の影響」「社会的地位」などが織り成す『立場』で、「そんなこと言えない」が増えてしまうことも確かです。逆に、あまりに万民に同じ口の利き方をし、顰蹙を買ってしまうケースもままあります。うーん、むずかしい・・・。

コレには解決法はあるのか?

今日も世間話で出たのですが、私は小さい頃から祖母や叔母・叔父などと、代わる代わる狭いところにパックで同居していたので、ボキャブラリーが多様です。たとえば、今の子は「衣紋掛け」を知りません。当然、着物を日常着にしてはいないものの、ハンガーが上陸するまでは、みな日々「衣紋掛け」をボキャブラリーとして使ってきました。が、母は今でもハンガーとは言えず、「衣紋掛け」を自分のボキャブラリーとしていますし、他にも「寝巻き」「お勝手」「御御御付(おみおつけ)」などが日常語です。わからない若者はきっとたくさんいることでしょう。その古語にも近くなってしまったボキャブラリーの中にも、モノや人の位置関係をつける示唆があり、使いこなせればかなり便利ではあります。が、同じ言語を話していないようになってしまえば、やはり意味がないことなのでしょう・・・。

私は子どもの頃から、「ラフにカジュアルに話す子」で、「口の利き方がぞんざい」と言われてきました。

ぞんざい: (1)物事の取り扱いがていねいでないさま。いいかげんなさま。粗略。 (2)乱暴であるさま。礼儀にかなっていないさま。

コレで、母が私の昔をおもしろおかしく話すときに誤解されるのですが、私は「粗い、男の子のような乱暴な言葉遣いをする子」ではあったのですが、「礼儀がない子」ではなかったのです。「おじゃまします」「いただきます」「ありがとう」を連発するくどいくらいの子でありました。が、その後にくっついてくるTomboy(おてんば)な行為や、上げ下げの強いトーンの話し方などで、全般的に「ぞんざいな子」になっていくわけです(笑)。苦しい言い訳なのか?(爆)特に、不器用な子ではなかったものの、モノの取り扱いが粗野に見えたのは仕方がないです。子どもの頃から手がとても速かったのです・・・。ハイパーの塊でした。今でもです(笑)。

字が読めるようになり、書けるようになり、世界はどんどん広がっていきます。たくさんのボキャブラリーを手に入れ、大人が使っている言葉を自分のものにしていき、口の利き方についても母に注意された分、ものすごく自意識を強めていきました。

母は、「外面がいい」と私が18歳くらいまで言っていましたが、そんなことはありません。私は外面も内面もないですから・・・。人によって態度や言葉遣いを大いに変えることは、子どもの頃にはたいへんなプロジェクトです。けっこう無理があります。大人になってもカメレオンやこうもりのような潔くない行為に思えるので、私はしていません。相手との距離感によって、言葉遣いは変えますが、相手の社会的地位や年齢やその他で言葉遣いを変えることは一切ありません。こういうシステムのほうがずっと、自分がラクだからです。

私の解決法はあまりに簡単すぎるルールなのですが、今のところはコレで大丈夫みたいです。なぜならば、私自身が社会的地位や年齢差や性別やその他を重視していないことを、きっちり距離感の中で伝えることに成功しているからです。うーん、別な言い方をすれば、それが気に食わない人は、私との距離感を縮めない、ということでしょう。むしろ、いいスクリーニング(ザルで濾し分けている)の方法なのかもしれないです。

全般的に、英語を使えるようになってから、日本語を大切にするようになりました。医者のことをもう「お医者様」とは呼ばなくなりましたし、メシとごはんの区別をつけるようになりましたし、他人の親御さんやご家族への敬称にも気遣えるようになりました。

さらに、イチバンよかったな、と思うのは、「そんなこと言えない」がなくなったことですか。「とりあえず言っておいたほうがいい」という程度の発端を伝えてから、相手の表情や言葉を読み、まだ言えるようであれば、段階的に徐々に深みを付け加えていく。スーパーのレジの女性にも、「あら、その爪ステキね」と言うだけで、会話が広がり、来週のセールを教えてもらえたり、病院の受付でもマッチングイヤリングとネックレスを褒めると、保険申請のコツなどを教えてもらえたりしています。特におべっかではなく、思ったことを言うだけなので、こちらのほうには無理などありません。ネガティブなことでも同じで、お鮨やのカウンターで、「妻の悪口」を言う男性がいたら、「本人に直接言ったほうがいいわ。私が聞いても本人じゃないからわかんないし」ととりあえず言っておくのです。「言ったんだけど聞いてくれない」などと受け応えるようであれば、「本人がいないところで悪口を言うのはよくないわ」などと続けられます。もしもしつこいようであれば、私が黙ればいいことです。とりあえず、「そんなこと言えない」はなくなっています。

しかし、口の利き方というのは、繰り返しの訓練です。学習です。やはりいろいろな人に出会い、こなれ、これでもか、と試してみないとなかなか身につかないことでしょう。ここのところで、西さんのように寡黙な人は損をしているのか?と思うことがあります。が、西さんはそれをアドバンテージにし、寡黙なりに言葉の重みを武器にしているとも見受けられる・・・。うーん、むずかしい・・・。

キリがないですが、トライすることはやはり大切です♪