05/10/2006 にアップした文章です

これは私の座右の銘のひとつです。「誰かのために、と言い放つのはちゃんちゃらおかしい」という結論に達したのは、何人かの留学生を家に置き、苦い体験をしたあとです。誰かのために、などと思うことは傲慢すぎ、「良かれと思って」は独善に過ぎず、却ってユニークであるはずの個人こじんを型に嵌めてしまうことになります。さらに、「誰かのために」が頭を掠めている瞬時から、心のどこかで見返りを期待することになります。

これは子どもを持とうと、ネコを6匹飼おうと、今後犬を飼おうと、友だちを住居に招いて住んでもらおうと、会社に寮を作ろうと、お金が儲かって寄付ができても、まったく変わることのない、私の普遍的な考えです。言い切ってしまっていいのかって?ええ、ええ、これに関しては大丈夫です。私は、基本的な出発点は、「すべては自分のためにやっていること」とし、他人に対しての期待は一切しないし、誰かに感謝すれこそ、感謝を要求することは一切なくすよう自分を躾けています。

以前、楽天でBlogを書いている最中に、「緊急!」という見出しでの寄付金を集めるBlogを書いている人の訪問がありました。彼(男性)は、たくさんの非難轟々の中、それでも閉めることなく、不平不満を大元に訴えかけた人たちに応答した楽天が、彼のBlogを閉める結果となりました。彼のしたことは、基本的には、絶望的に助けを必要としている人々のために、100円ほどのお金をできるだけたくさんの人から集める、ということで、本人ではなく、きちんとした(見える)団体のサイトをリンクしていたのです。が、考えようによっては穴があり、リアルの裏で彼が手数料をもらっていないとも限らず、実際にその振込先がLegit(法にかなっている)なのかも証明できず、結局、私は「好きにすればいいけれども、私は賛同しない」と彼のBlogのコメント欄に書き、さらに私のサイトに書き込みをしてくれたお返事を書きました。1日に9000ほどのヒットがあり、彼への非難の第一は、「自動訪問設定をしている」というもので、アップされたらすぐに訪問する、ただするだけで読まない、ということらしかったです。そのようなことは私にはどうでもいいですが、詐欺まがいの疑いを拭えないやり方には、私は手放しで認知できず、とりあえず言いたいことはしっかり伝えておきました。

このように、「誰かのために」を謳い文句にすることは、私個人にはとても胡散臭いのです。疑われる余地があり、弁明できないことはしないのが、私の主義なので、できるだけ証明しようという態度がない書き込みなどにもがっかりさせられました。さらに、心ある人が赤十字やユネスコなどの募金サイトをオススメしていたのも、「ありがとう」で済ませていたこともあり、なーんとなく胡散臭さは増していったのでした。彼が、「震災被害者やその他の絶望的窮地に陥っている人たちを助けること」に正義感を持ったことそのものを否定する気持ちはありません。が、方法がねじれていたら、やはり動機も疑われるので、賢くないやり方です。

さらに、私はこの彼の動機の「他人のために」アプローチを、どうしても傲慢に感じてしまっているのです。厳密に言えば、まず;1.善行を行うことで自分がとても気分がよくなる。2.善行をした履歴が今後の彼の品位として、他人に評価される。この2点はどうしても否定できないし、証明しきれないことです。では、出発点は、やはり自分のためでしょう・・・。評価する他人をコントロールする権利などは誰も持っていないのです。もしも、彼が粋な人であれば、私の友人が過去やったようにAnonymous(匿名)のまま、足跡を一切、あるいは最小限に抑えることができたはずです。私の友人は、税務署の書類と寄付先の経理担当者以外にその足跡は残しませんでした。が、彼はハンドルネームを残し、プロフィールを書き、質問に答え、やはり手がかりを山ほど残してしまっていたわけです。自分のためのイメージコントロールは、無意識だとしてもやっており、サイトを見ている私たちには、彼がリアルで知人に何を言ったりやったりしているのか、証明する術はないわけです。ですので、「他人のためにやっている」という言葉は、部分的に嘘になります。

↑私って厳しい?(爆)

私が将来ガーナに介護用バスを寄付したいのはすでにどこかで書きました。これはガーナの人々のためでもなく、ガーナ人の友人のためでもありません。私が未来に向けて大きくなるはずのアフリカに、一粒だけだとしても足跡を残したいからです。すべては自分のためです。お金は生きているうちに使ったほうがいい。たとえ、その結果を見ることがかなわなくても、です。なぜガーナなのか?それは私がひとりで言語もできずに、コネクションもないところに出向くよりは、既知の友人が私の代わりにたくさんの説明をしてくれて、私の仕事が省けるからです。彼が知っている私が伝書鳩になってくれる。利用することになるのか?なります。が、Give and Takeならば、それを隠すことなく、さらに「あなたとあなたの国のためよ」と恩着せがましいことを言わなければいいのだと思っています。そのときに、感謝状やら楯をくれるようなら、丁寧に断ります。そのお金で、予防注射があと何本もできることでしょう。健康によりよく生きていくためには、私の自尊心のための感謝状や楯よりも、人の身体の中に汲み汲みと流れ、確実に役立つ何かを選ぶことを希望します。

が、すべては自分のために、です。私が気持ちよくなるため、天国の階段を駆け登るために、という動機であることは、明確にしておきます。が、他人からのイメージコントロールを意識的にやろうとは思っていません。私を実体よりよく思ってもらうことは、今までの人生の中の経験から言うと、とても迷惑で負担になることが多かったのです。一度ついてしまったイメージは、拭うことは困難です。しかも多勢に無勢だとしたらなおさら・・・。もうあんなことはしたくないです。特によく思ってもらわなくてけっこう。実像よりも小さい器だと思われてもけっこう。ただ、逆に大きな人間だと思われて誤解されることはカンベンです。私も所詮、自分の頭の上のハエを追い払っているに過ぎず、自分で有言してしまったことを実行するのに必死な状態です。くそと思われて相手にされないほうが、ナンボか気楽です。

今読んでいるJonathan Kellermanの残り2冊のうちの一冊が、Rage(激怒・熱望)というタイトルなのですが、「よさそうに見える人」「誰かのために、を職業にしている人」についての心理を鋭く描いてあります。宗教関連者や教師、医者、弁護士や警察官などなど、大きく他人のためを鼓舞している職業は、よく見極めないとそうでもない動機が隠れていることがあります。ここで消防士を抜かしてしまうのは、私が個人的に消防士さんたちは基本的に大好きだから(爆)。たとえば、教師は「教えることで優位に立てる」のようなネガティブなほうの動機傾向があります。弁護士も「フィジカルではない頭脳による勝ち負けの優位」、医者は「神に似た全能感」などなど、動機傾向を悪く見てしまうとキリがありません。「誰かのために」を強くアピールする人で、私が本当にいい人だと思った人は極端に少ないんだよなぁ・・・

たとえば、Mother Teresaは「あなたのために」「インドのために」などと一言も言いませんでした。それでも違う宗教を信じる人々の最期の望みをかなえるため、ガンジス川に死ぬ直前の人々を案内したわけです(まだ彼女の伝記映画見ていないことを思い出した・・・)。

私がこのBlogを書いているのも自分のためです。まったく自分のためであり、誰かの役に立つようなことがもしもあるようならば、ただのおまけで感謝に値しないことです。会社を興したあとの記録、日々の考えをまとめておき、フルタイムの学生に戻れる日が必ず来るよう、自分をモニターするためのツールです。なのに、読んでくださってどうもありがとう♪こちらのほうが読者のみなさまに感謝です(ぺこり)。

今後もすべては自分のために、ですので、誰かのお誕生日をするのは「私が言い訳を作らなくても飲めるように」。旅行にUSまで来てもらうのは、「そうでもしなくちゃ観光地にはわざわざ出かけていかないから」。などなど、やはりどうあっても自分のためのようです・・・・。