05/11/2006 にアップした文章です

大人になってもPeer Pressureに弱い個体をよく見かけます。何度もエッセイのテーマとして扱ってきましたが、文化圏を文化人類学で分けてみるひとつの手法に、個人主義(Individualism)と全体主義(Totalitarianism)があります。

個人主義:(1)〔individualism〕個々の人格を至上のものとして個人の良心と自由による思想・行為を重視し、そこに義務と責任の発現を考える立場。(2)その人の属している組織全体・社会全体のことを顧慮せずに、個人の考えや利益を貫く自分勝手な態度。

全体主義:〔totalitarianism〕個人は全体を構成する部分であるとし、個人の一切の活動は、全体の成長・発展のために行われなければならないという思想または体制。そこでは、国家・民族が優先し、個人の自由・権利が無視される。

くどいようですが、細やかなメンタリティを大雑把な二元に便宜上分けてみることは、時として有効で、全体像を掴み、整理していくのに大切なことなので、理解しておいたほうがいい語彙です。

日本人が「個人主義」と言葉にするときに誤解しているのが、(1)の意味を飛び越えた(2)の意味です。私がこれについていつも言及するのは、日本の歴史やそもそもの成り立ちや長い間かけて培ってきたJapaneseness(日本性)をゼロにすることは不可能なので、当然、欧米型の個人主義を日本風にアレンジした形になっていくのは必至だということです。卑近な例でいくと、カレーがそうです。そもそものカレーはインド発祥ですが、日本のカレーはインドカレーとはかなり遠くに位置します。ターメリック他を使っていることは確かですが、そのアレンジはインド人が食べてみると不思議でしょう。歴史を切って一部だけ取り出してみても、戦国の乱世にも歴史や人々のメンタリティが、大きく改革に影響されていることは容易に見て取れます。近年でも「抜本的改革」などが謳われていますが、あんまり抜本的になってない(爆)。それは、人々のメンタリティを変えていくのが、どんなにか困難かということを顕しているわけです。というわけで、日本でいう個人主義には、欧米型の個人主義の良い面がなかなか直輸入できず、個人の人格を至上のものとすることができにくく、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」が主流であることは否めません。ゆえに、日本を始めとするアジア諸国の文化圏は、全体主義とみなされるわけです。

これは、文化心理学での文化圏意識査定をしただけでわかることは、1999年のエッセイ『いわしの学校』で書きました。どちらにも、冷静に見ると、一長一短があり、どちらが優れているだとか劣っているだとかいう話ではありません。

が、個人主義よりも全体主義のメンタリティのほうが、さらにPeer Pressureには弱いのです。大人になっても同じで、政治や商業、学校のシステムやその他、いろいろな生活の範囲に影響しています。日本のTVは私には相変わらずおもしろく、最近も「自己責任って言葉を二の次に言うコメントはもういい加減にしてくれと思うなぁ」というコメントを聞いて大笑いしました(笑)。自己責任という概念が欠落しているがゆえに、誰もが何度も何度も口にしてしまうのでしょうね・・・。

私個人は、断然個人主義を圧倒的にほぼ100%採用しているように見られがちなのですが、実際、日本で生まれ育って24年ののち、USに18年住んだので、やはり心はふたつの混ぜ物です。多少個人主義を採用する傾向が強く、平均的日本人性の文化数値よりは上を行くのでしょう。たいへんに全体主義に寄っている方々にとっては、驚くほど攻撃的に個人主義に見えるのだと思われます。

個人主義に生まれ育ったアメリカ人であっても、驚くほど愛国心は強いのだ、という側面はスポーツイベントや軍隊儀式、討論の集まりや政治への態度などで見てきました。どちらがより強いのか?という自分なりの立ち位置をここで確かめてみることが、ある種の基準になるかと思われます。その上で、個人主義であれば、誤解をしていないかどうか(辞書にあるところの(2)の意味になっていないか)を確かめてみることです。が、大切なのは、どちらかが強いということであり、ものさし上の数値であって、血液型などのように「これ」という固定ではありえないということです。時間が経てば、Input(外からの刺激)により多少の変化があります。

うーん、そもそも個体(ヒトやその他の生命体)を決め付ける傾向にあるのならば、やらないほうがいいのかなぁ・・・。

Peer Pressure: 個人が心地いいと感じながら属す集団が作り出す力学で、性的・個人的習慣・それぞれの倫理観・抑制力・異質な欲望などをくつがえし、態度や行動を集団の基準に合わせるよう無理強いさせるもの。

メカニズムは;あるひとつの小社会の持つ特質を踏まえたところでの、個人こじんの言動が作り出す力関係が作るConsequences(成り行き)の積み重ねにおける圧迫力です。集団に属していられる程度の心地よさが問題で、たとえ就職先や学校などの強制力が多少かかっている集団であっても、「脱退」を決意するほどのものではないことに注目してください。がゆえに、現代人は「ストレス」を連発することになります。脱退することもひとつのオプションであることは、全体主義に偏っているとなかなか認められない傾向にあります。集団により生かされているという概念が強いためです。

たとえば、グループのリーダー格の人間をリーダーのままにしているのは誰なのか?を考えてみてください。会社であれば、社長や部長、課長などの格付けがあり、平社員がわりと簡単で諦めやすい環境がすでに整っています。

それを常識の基準として他の小社会にも当てはめてしまう場合が多く、たとえば社宅では、妻が夫の格付けに伴った振る舞いや力関係を持っていることがかなり多いです。学校に通っている場合でも、父親や母親の社会的地位を持ち出して力関係を左右させる子どもがいることは嘆かわしいことです。私立などで閉鎖的環境であると、子どもが自力で抜け出るためにはたいへんな努力が必要で、Learned Helplessness(学習してしまった無力感)が陰を射し、ポジティブに変化することは難しくなります。さらに子どもがもっと苦労するのは、成長していくスピードに個人差があるにも拘わらず、運動や勉強や容姿などが決める力関係を固定したConsequences(成り行き)になりやすい日々を過ごすことになることです。

それに慣れきってしまった子ども時代と10代を過ごした大人たちは、やはりまだまだPeer Pressureに弱い。力を持っている人間が言ったことに、ついつい耳を傾け影響されてしまうのです。私個人は環境的に、毎日日本にいるわけではないので、特に影響されることはなく、まだまだ動物園・水族館気分で楽しんでいられるのですが、住むとなると意識的に回りを査定することはたいへんでしょう。

明日は、大人が負けているPeer Pressureの具体例を。