05/24/2006 にアップした文章です。

世界同時公開に3日遅れて見てきました。月曜日のお昼ちょうどの開演は、その日の1番だったのですが、30人ほどいたので、やはり強さを見せ付けられた気がしました。この週末だけで、77ミリオンもの売り上げだったというニュースを朝確認し、不動産のサインや洗濯、水の買出しなどに出かけたあと、あまり気負わないで出かけました。

なぜなら・・・。原作を先に読むのを断念してしまったからです。11ヶ月日本に駐在するということは、それだけ英語に触れるチャンスが減るので、原書を買ってどっさり持っていこう!という目論見の中に、DaVinci Codeも入れておきました。他にも、お気に入りになったJonathan Kellerman と妻で作家であるFay Kellerman の息子、Jesse Kellerman がSunstroke で作家デビューしました。私の他のお気に入りであるRobert B. Parker がカバー書評を書いており、“Quite simply brilliant.” (本当にただただすばらしい)と残しています。

原作を読んでいないので、抜けてしまうところが多々あると思いますが、フォローアップは原作を英語で読み、Mr. Dan Brownに敬礼してからまた書きたいと思います。

さて、映画ですが、映像はかなり楽しめました。観光地をことさら網羅してあり、当然、原作に沿っているのですが、それだけでもわかる人にはありがたい風景がたくさん続きます。私もほぼ19年前にフランスには1ヶ月以上滞在したので、けっこうなつかしいと同時に、変わってしまったパリを見てびっくりもしました。

相変わらず劇場で見ると、音響に驚かされます。やはりお金持ちになったら、エンターテイメントルームは居間とは別に持ったほうが、かなり楽しいのでしょうね。臨場感が深くなると思えます。George Lucas 様様です(Dolby Surrounding systemの立役者)。気づくと、かなり贅沢なBGMが流れており、歴史と音楽の造詣に深い人が見た感想も聞いてみたいな、と思いつきました。私はほんの表面をなぞっているだけなので、それほどの醍醐味を堪能したと思えないのですが、きっとわかる人にはわかるし、穴があったのかもしれません。たぶん、原作を読むと、またこのへんももう少し理解が深まると思えます。

Tom Hanksの髪型がかなり不評だったようですが、私はアレでよかったと思います。Harvardの宗教学の中でもシンボリズムを絡めて研究している人が、クリーンカットではちょっと違うでしょう。Audrey Tautou は、私個人はAmelie以来だったのですが、やはり「きれい」というよりは、素朴で清らかな、というイメージからのキャスティングだったのだな、と強く感じました。他のキャスティングもそれなりによかったですが、たぶん、原作を読むとまた私は文句を言うんだろうな(笑)。フランス語が話せる人を優先したのだとしたら、やはり仕方ないのかもしれません。それにしても、原作を読んでいない弱みからなのか、Jean Reno をもう少し使えなかったのでしょうかね・・・。特に彼でなくともよかったような仕上げに感じました。

この映画の難点は、コード解析の時間を観客にまったく与えないところ。当然、長い原作を149分にまとめなければならなかった使命があるので、これも贅沢な要求なのでしょうが、見ている人が一呼吸考えていけるツクリになっているのが好ましいと思えました。Harry Potterや今流行になっているGraphic Novels (早い話が最近までアニメと括っていたもの)に比べて、原作を読む必要性が出てきてしまう。どうしても、映画だけでは、浅さに騙された感が拭えなくなり、原作者と組んで本も読めと強要されているような気分になりました。私の場合は、もともと本を読むつもりでいるからいいのですが、ある種の人々にとっては映画だけで楽しめないのではないでしょう。抜け落ちている謎がきっとたくさんあるはず、と映画を見ているだけでわかります。

さて、宗教団体がプロテストを世界各地で繰り広げているようですが、「特に問題はないよね」というのが、私の感想です。たとえ私がクリスチャンだったとしても、特に攻撃的な内容とは思えませんでした。ある人の信念や真実に迫りたい欲望が、なぜ、真実だと決め付けて、キリスト教への冒涜になるのか、少しわかりかねます。Mel Gibson監督の The Passion of the Christでもそうでした。歴史をどのように解釈する人がいても、違う意見の人が糺すくらいの根性と覚悟と方法論を備えていないのであれば、そもそも、このような証明しきれないことに、歯を剥き出してムキになることもないでしょう。「何も知らない子どもたちや、教養がない人たちがコレを信じたらどうする?」と、まるで人類の警察官みたいなことを言う人がいますが、それはそれでいいでしょう。自分で検証し、自分で考えずに、他人が与えたものを受け取る愚民のまま存在していくのであれば、それはその人の決断です。

いろいろな意見があるから、いろいろな見方があるから、やはりこの世はおもしろいわけです。

最後にきちんと映画だからなのか、原作にもあったのかまとめてあったではないですか。マグダラのマリアとキリストの子孫が汲み汲みと生きつづけていたとして、DNAを取るものがないであろう今、証明もできず、Divine(聖なる存在)であるのか、それとも他の人間と同じひとりとして生きるのかは、本人が決めることでしょう。可能性としては、ゼロではないことに、想いを馳せて本を書いた人がいてもいいし、それがある団体が長年信じてきたものを崩すとしたら、崩れるだけのFaithでしかなかったわけです。

そんなものは、有吉佐和子が書いた『皇女和宮』にもあったし、将軍ラインやその他、腐るほどある話でしょう。規模が違うって?いやいや、天皇は現人神ですから、日本人の心の中では同じスケールと受け止めることだってできます。そんな人たちがいるからこそ、雅子妃殿下も苦しんでおられるわけでしょう。

ただ、もしも事実だったとしたら、という仮説の中での、女性迫害のくだりはいかにも信じやすい人がいるのかな、とも思えました。歴史上、女性が迫害されてきたのが、この一点だけが大きな理由だとしたら、それほどバカらしいことはありません。クレオパトラも楊貴妃も則天武后も、強い存在として歴史上に生き残って死に逝ったと残されています。例外はやはりあったのですから、やはり決め付けることはできないでしょう。

ただ、宗教がいろいろな意味で、人を統治する方法として使われてきたことは、いくらナイーブな人でも認識して、その上で自分の宗教を選んだほうがいいとは思います。歴史を背負いながら、積み重ねでここに今も存在することは確かなわけです。

日本が敗戦を経験したあと、慰安婦問題などを攻められているのも、同じ理由でしょう。現代を生きている人が直接手を下したわけではないにしろ、歴史を振り返り、他人に対する歴史の解釈の違いの理解をし、その上で、個人こじんが思う正義を遂行する態度が必要です。

聖杯が存在したかどうか?この謎解きは映画では最後まで引っ張られてしまい、マグダラのマリアの存在(遺体なのか祀ってある場所と事実なのか)が、聖杯のシンボリズムに摩り替わっていましたが、きっと原作を読むともう少しひねりがあるような気がする、疑い深い私です(笑)。

さらに、映画では、タイトル通りのダヴィンチの役割が薄かった・・・。絵画と秘密の隠された玉手箱のデザインだけ?彼の役割は何だったの?と、最後まで本を読めと強要されている気分が抜けませんでした。映画を見て、こんなに謎が残ったことは久しぶり・・・。やはりハリウッド映画のよさである、痛快ですかーっとした気持ちになるのがスタンダード、という作品ではないことは確かです。エンターテイメントしてもらえず、考えるヒントを散りばめてもらえたわけでもなく、ひたすら、原作を読もうよ、ネットで検索しようよ、と囁かれた感じ(爆)。

見た人が多いと思うので、見た人にこれから私がしつこく聞いて回るのは必至・・・。質問された人たちは我慢してね(笑)。