05/26/2006 にアップした文章です

私は、泣ける胸が欲しくはないイヤーな女で、泣ける背中ならばたまには貸してもらってもいいなぁ、と思います。賛成してくれる人もわりといるのですが、こういう勝気でかわいくないやつは、なかなか生きていくのが難しいです(笑)。

まずは、私の場合はサイズがあるのですよ。身長が高いので、泣いたときに胸にすがって、すっぽり包まれるというのは、かなり難儀なことです。しかも、自分の身長をまったく問題視していないように振舞っているので、ハイヒールも履きますしね。+もありますが、-も確実にあります。しかも、がっちりした体格なので、肩幅が広いのよ(笑)。包み込むなんてかなり無理よね・・・。

しかも、私は大きな男に魅了されない性質と来ている・・・。ここには大きな矛盾と無理があります。今考えると、順番がわからなくなります。泣ける胸がそもそも欲しかったけれども、断念したのか。それともそもそも最初から泣ける胸など欲しくもなく、泣ける背中が欲しかったのか・・・。私は圧倒的に前者だと信じたいのですが、明確にはいつまで考えてもわからないことでしょう。

何度かエッセイに書いたように、私は1日に1回は必ず泣きます。それが映画や読書からの刺激だったり、ニュースだったりすることが最近は圧倒的になりました。想い出を辿って泣くことも多いです。特に父のことを考えると、切なくなる確率はとても高いですね。さらに、うどちゃんが腎臓病にかかって、もうすぐ15歳を迎えようとしているので彼がいない私の人生を考えると、淋しさに耐えられるのかつらくなってきます。もっとスケールが大きなものになると、宇宙の外側のことを考えたり、地球滅亡のことを考えたりで泣けてしまうこともあります。法医学番組を冷静に理知的に分析しているつもりでも、あとから感情がくっついてしまうこともあり、遺族や被害者や、時としては加害者がなぜ加害者になったのかということでも泣けてしまいます。こんなときは、ひっそり泣きたいものなので、特に誰かの背中が欲しいとは思わず、すっきりするまで泣いて、けろっと立ち直るように心がけています。でないと、日常がちゃんと暮らせなくなります。

近頃はめっきりなくなっているのですが、自分のために泣くという行為。自分のためにはPTSDの真っ最中の1年と、その後のフォローアップでセラピーに通っているときの2年で充分泣き果たしました。当然、重すぎた症状が出ていたときには、私の考えや感情は、自分が被害者だという、さらに自分を惨めにしていく、純然たる自分の愚かさや過去や事故への不運さや、加害者や加害者の心理や理不尽などに費やされました。涙の理由もそれが主でした。そんなときには、あまりに自分が縮こまってしまい、この世から消えてなくならないように、誰かにしがみつきたい気持ちになります。が、私の個人的で身勝手な涙や悲しみを、他人に対してそのまま大きなお荷物として受け止めてもらうのはあまりに忍びないし、失礼です。ですから、胸にすがって泣きじゃくり、問題をシェアする、という態度を示すのはあまりにもエゴいと思うがゆえに、いつも黙って背中を貸してもらいたいな、と思うのでした。

こんなに泣く回数が多い私は、不思議なことに他人に涙をめったに見せません。映画のときだけが例外です。いっしょに映画を劇場に見に行っても、私が泣いていることはバレませんが、家で映画を見ているときは、かなりバレます(笑)。どこで泣いているかに気づき、私を思いやってくれる人はめったにいないのは、やはりそれなりに胸を打つ映画で、隣でうるうるしていたり、深く想いに浸っている場合が多いからです。「あー、よかった」と思いながら、映画が終わったらちゃんと立ち直るようにしているわけです。うーん、なんかこの風景もかなりコミカルだよな・・・(笑)。

父の葬儀のときも、鼻を真っ赤にさせて、目の淵を震わせ、いっぱいの涙を目に溜めながらも、私は涙を流すことを極力抑えました。もう13年以上も前の話ですが、昨日のことのように思い出します。私が彼をどんなに愛したのかというのは、誰かに理解しがたい部分もあり、どうしても誰かに同情を買うのがイヤだったという、私のひねくれのせいだったのか。それとも泣かないイメージをそのままキープしたいポーズだったのか。父が望んでいたことは、彼が生きてきたことを祝ってくれということだったから、泣くまいとしたのか。今となれば何とでも言えてしまうので、これも原因はピンポイントできません。

が、私が他人の胸で泣かないのは、やはりどうしても私の感情で他人を振り回したくないという一点に尽きます。あまりにナマすぎる感情を目の当たりにして、半ば強制したように受け止めてもらいたい、と甘えることは、私にはできないわけです。強情すぎますが、私はこういうツクリなんだなぁ・・・。しかも、泣くエキスパートになりつつある私としては(8歳か9歳くらいから毎日泣いていて、1年に10日くらいしか泣かない日はないですから)、自分の精神生活を管理するにあたり、他人をアテにするのはどうしてもかっこいいこと、潔いこと、とは思えないのです。

あー、セラピストの前では、初期の頃は毎回泣いていました。最初の1年で、半年は毎回泣いており、それでも頭のどこかで、「セラピストはクリネックスをまとめ買いするんだろうな」などとも思っていたのです。その後も、2回に1回になり、しまいには冷静にまったく泣かなくなりました。トータルで3年は掛かったわけですが・・・。セラピストに全幅の信頼を置けるのは、「お金を払っている友だち」という表現もあるように、法律で守られており、個人的な秘密も情報も、他に漏らすことがあれば、ものすごい損害賠償になります。私が被害者になった経緯は、とても複雑で、私はこれまでの経緯を西さんやビジネスパートナーの他、5人くらいにしか話せていません。聞かれれば、かいつまんで話すことはできるようになりましたが、できることならば触れたくないし、まだ加害者にも情報開示の許可を取っていません。そんなこともあり、私は、セラピストには全幅の信頼が置けているわけです。

私が個人的で身勝手なナマの感情で泣くことは、相手を選ばなければ自分が精神的に破滅するチャンスが高い、というものすごい圧迫を持っているわけです。自分だけではなく、それに関知した人々も破滅するチャンスが高い、とも考えており、高い城壁を築いているのかもしれません。

が、ゆえに、細かいことを話さなくてもいいように、胸ではなく、背中を貸してもらいたい、ということになるのだろうと思います。

他人の情報に関して、私は西さんにも言わないことがあります。言えないというのが正確なのでしょうが、聞く覚悟をしたときには、言わないと決めたら言わないわけです。相手の許可なしには、たとえ西さんであっても言わないのです。それは人としての品位の問題です。セラピストではないのだからいいでしょう、という人もいますが、私はその内容の重要性は、経験した個人にあると思っているので、あくまで尊重しています。

が、私がこんなに頑なに守っていても、私のナマの身勝手な感情を尊重してくれなかったら?と、いつも他人を疑う余地を持っていることも確かです。西さんにはまだ裏切られたことが一度もないのです。私が若い頃、Bridget Jonesを続けなければならなかったのは、こういう意固地なところもあるのかもしれません(笑)。

そして、信頼できるかできないか?という相手を見極めることには、いつもチャレンジされている気分になっています。毎日のアウトプット、解放である泣く行為と、自分の深いところから湧き出てくるナマの感情から泣く行為をしっかり分けて、その相手を選んでいる私は、やはりどこか冷酷であるし、問題をまだまだ抱えているのかもしれません。

と言いつつ、今日も泣いたのですが、自分のために泣いていませんのでご安心を(笑)。

2013/ 6/15 16:26