06/25/2006 にアップした文章です。

 

私は正常値以内のファザコンだとは認めますが、私からの愛よりも、彼が私に向けて発してくれていた愛の大きさには、亡くなって14年が過ぎても思い知らされます。今でもまだ彼は私を愛し続けてくれていることを、亡霊を見るかのように思い出すことがあります。

質屋通いをするほど瀕していたり、ブルマーが買えなかったりしたにも拘わらず、父は私の「子ども保険」だけはずっと払い続けてくれていました。弟の分もです。子ども保険を大人になって通常の生命保険に切り替え、さらに私が渡米する直前に、父は保障額を3千万に増やしてくれました。20代前半の小娘には大きすぎる金額でした。「パイロットのライセンスを取るために留学するんだから当たりまえだろう」と、こたつに差し向かって話した父の顔を思い出します。長年払い続けているおかげで、私のその生命保険は、年間わずか17万ちょっとしか払わずに済んでいます。差額ベッド代もゆうゆうと1万あり、本当に父は私のことを、最後まで面倒みる責任感に満ちていたのだと、感謝感激です。西さんの生命保険が4千万で毎年36万弱ですから、相当な節約ができています。

弟は、結婚し、家を買うときに解約してしまったのですが、今、彼がどんな生命保険に加入しているかを私は知りません。

父が中卒だったことは、1999年のエッセイにすでに書きました。京王自動車のハイヤーの運転手で、朝日新聞の記者付だったことも書きました。が、私が父をこよなく愛してきた理由の大きなひとつは、世間知らずと見られてしまうが、まったくのところ世間を必死に広げようとし続けた頑固者だったからです。彼が頑固を通すところは、今の私でも共鳴できます。同じことをするかどうかは別にしても、なぜ彼があれほど頑固だったかは、本当によくわかるのです。

中卒の劣等感を持っていた父は、優秀な大学卒の政治部や社会部の新聞記者たちを乗せて、彼らの話をくまなく理解しようと務め、世間を広げていったのだと思います。その小さいままの世界を私に与えないようにするため、彼は私に呪いの言葉をいつも掛けてきました(1999年エッセイ;トンビが鷹を、参照)。

私は今でも父にいつも背中を押されているような錯覚に陥ることがあります。PTSDのときは、じゃ、なんで父親に感謝し早く復活しなかったのかって?うーむ、反論できん・・・。が、西さんを選ぶときも、パイロット路線をやめて学校を選ぶときも、進学したときも、起業をしたときも、今も、いつも父に背中を押されている気がして、ついつい後ろを振り向いてしまうことがあるのです。

父とはガン以前も病床でも、「死んだらあの世から私に会いに来てね」と堅く約束をしたのですが、14年半過ぎた今でも私はまだ父に遭えていません。私の霊能力がまったくマイナス値なのか、霊界があったとして何か事情があって父が来られないのか、そのへんは定かではありません。霊はいないことは証明できないので、私は否定もしません。が、いることも今のところ証明はまったくできていません。なので、なぜか背中を押されているように感じるのかは不思議なところです。まったく霊感ではなく、ただのイメージですから。え・・・っと・・・、妄想とも言えますか?(爆)。

教養の深い人ではなかったので、「バカだな、それは違うだろ」などと、押さえつけたような言い方はしょっちゅうされましたが、表面的な封建君主のような振る舞いとは違い、私は幼い頃から彼の劣等感をひしと受け止めていたので、いかつい仮面の下にある父を透かして見てしまうような、イヤな子どもでした・・・(笑)。結果的には、54歳の若さでガンで死んだわけですから、生命力が総合的に、圧倒的に強かったわけではありません。が、私は彼が自分でしてこられなかったことを、私に託しているのだということは小さい頃から感じてきました。母も同様でしたが、なぜ母のしてこられなかったことを多少しか選ばず、父がしてこられなかったことを多く選んだのか、これは私の先天的な気質に拠るものだと思われます。

うーん、さらに、母のしてこられなかったことでしたいこと、って、今も元気に生きている母はまだまだできる可能性があるわけなので、父が死んで以来、私がしっかり彼女がしたいことができるように心を砕いているせいもあります・・・>飲んだり食ったり、買い物したり、笑ったり泣いたりが多いんですが・・・(爆)。母はたくましくて原始的なところが多い人なので、過去を振り返ってセンチメンタルになっても、泣いておしまいなのです。心の深いところにある傷は、パンドラの箱にしまっておいて、たまに出して自己憐憫をして、直後にケラケラ笑っちゃうの(爆)。

長野県飯田市の片田舎、三河国定公園から車でわずか15分ほどのところで生まれ育った父は、井戸水で育ち、屋外風呂で育ちました。小学校では、クラスがしっかり分かれておらず、数学年をひとりの教員が見るような過疎地域で義務教育を受けました。そんな父がいつも憧れていたことは、自分の行動範囲を広くすることで、よその世界にいる人々の考え方を知ることでした。そんなところに生まれ落ちてしまった自分の運を呪いきることもできず、父は与えられた環境を少しずつ拡張することに日々を費やしていきましたが、ブラックホールによるワープを期待できず、学歴や技術のなさで世間に埋もれていきました。そこで、私に夢を託すことになるのです。

現実的には、本をふんだんに買うお金さえなく、塾や習い事に大枚を叩ける状態でもなく、父は最低限の彼が信じた必須である子ども保険をずっと払い続けてくれました。大学に行くお金もなく、私は自分で稼いだお金で大学に行きました。その大学を中退するときも父には土下座をされ泣かれました。留学費用を必死に貯めたかけもちバイトの2年半のときにも、私の夢物語を応援する一方、どこかで嫉妬を感じており、「そんなことできるわけないだろう」と悪態をつくこともありました。一方、世間を広めるために、労働組合の支部長をやったり、ワープロをいち早くこなしたり、競馬新聞での統計ノートをつけてみたり、と、彼なりのもがきは続いていきました。

費用を貯めてしまい、段取りをつけてしまった私を、親戚や自分の友人たちを集めて歓送会をし、自分と娘のダブルビジョンを見るようになった父は、さらにNHK英会話講座を開始しました。私がいつかアメリカに両親を呼び寄せてくれる、という夢を抱いていたわけです。残されたテキストには、鉛筆で英語の文章にたくさんのカタカナのふりがながつけられていました。自分の名前を英語で書く練習をしたページもノートに見つかりました。自分が社会党を支持していたために、私にも社会党を支持しろと命令形で居丈高に迫ることもありましたが、彼はこだわらねばならぬ頑固さをしっかり持っていたと、私は誇りに思っています。

底辺近くに生まれて育ったことがない人には、この悲哀はわかりにくいかもしれません。労働者を積極的に支持していくことは、彼の生涯のテーマでした。這い上がれるチャンスはわずかしか与えられておらず、どんどん社会に埋もれてしまうアリ地獄を生きた父は、本当に私を心から愛し、私の人生に乗っかる形でまだ夢を追い続けていました。アメリカでの労働史を学んだときに、不覚にも授業中に父を思い出し泣いたことがあります。メーデーのくだりでした。

「高学歴を自慢する」「頭がいいと言いたくて仕方がない」「お金に多少ゆとりがあるからって威張っている」「会社経営をしているからって何様だと思ってるんだか」などと揶揄されるようになった私を、父はむしろ豪傑に笑い、歓んでくれると確信するのです。わずかではあるにしろ、父の夢だった世間を広げることを、私もできていると思いたく、自分のためだけではなく、私の胸の中でまだまだ行き続ける父のためにも、こだわり続けて頑固にやっていかねばならぬ、と、決意を新たにしています。

商売がうまく行きそうになって、先行きのバクチに不安を感じて、また父のことを深く思い出してしまいました(笑)。