07/15/2006 にアップした文章です

 

美徳:美しい徳行。道徳の基準にあった性質や行為。

道徳:ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。

この「ある社会で」というのはトリッキーです。今日、横浜のサレジオ高校前での判決のニュースを見ていて思ったのですが、求刑20年のところが16年という判決だったことに、各方面の人々は怒っています。被告は24歳という若さであり、反省はお決まりの型通りなだけだったと、被害者や遺族やその他の関係者の印象だったようです。

犯人探しじゃないんだよね、くれぐれも・・・。誰が悪いなどと言っても埒は明かない。美徳が増えていくこと、それを願える人たちがどんどん増えていくこと。コレがやはり地道で着実にできる、パワーがものすごくあるわけではない私たちにできることなのではないかと思うわけです。パワーが絶大にある人々の例としては、政治家や財閥、成金などのお金持ちや、学界や法曹界の人々などかな。その方たちが、自分のパワーをどう使おうが確かに勝手なのですが、庶民としては「よりよい道徳のために使っているはず、それが当然」とは必ずしも言い切れないことが、悲しい現実です。なので、大昔から使われている言葉に、Noblesse-obligeというのがあり、身分制度が廃止された昨今でも「生まれもって恵まれた層にいる人々とその極にいる人々」の責任や義務はあるという見方も納得できます。

Noblesse-oblige:高い地位や身分に伴う義務。ヨーロッパ社会で、貴族など高い身分の者にはそれに相応した重い責任・義務があるとする考え方。

が、私にはパワーが足りないのよ・・・。なので、美徳が増えていくことキャンペーンをしても、あまり声が届かないわけです。こうして、Blogを書き続けても、Blogであるがゆえに「エセ」だと言われても反論を証拠つきで提出し、論破しようがないわけです。が、終始一貫した考え方が伝われば、信じてもらえるのではないか?と日夜しつこく、珍しい長文を続けているわけです。書き始めてしまえば、短い時間で仕上がるのですが、お題を考えるのがたいへんなのですね・・・。同じモードに突入してしまうと、なかなか暗から抜けられなくなったり、意味なく明るい文章を書き続けることになってしまいます。

さて、善悪・邪悪の判断を、ある社会の人々が水準を持ち一定化することは可能なのでしょうか?しかも、それは法律と違って外的強制力でもないし、宗教と違って個人の内面のことではなく、ある社会でいっしょに生きていくメンバーの相互関係を成すものだという・・・。3つ、コレを可能にする方法があります。

ひとつは、善悪・邪悪の判断を、多数決で最も多いところでライン引きし、そこを水準とすること。

もうひとつは、善悪・邪悪の判断を個人に委ね、その個人がいちいちおつきあいをするある社会のメンバーにいちいち伝えていくこと。

この真ん中の折衷案もあります、が、どちらをどの場合にどのように採用するかは難しいかもしれません。

心理学では、この外的強制力のことを、Reward/Punishmentというシステムで学習についてを解析します。学習のスピードや定着度は、報酬や保障/罰にて餌付けをすることにより強化されるというもの。これは、心理学界で、まずIvan Pavlovが動物実験で「パブロフの犬」の条件反射や馴化学習などを追及し、その後、Watsonが生きた赤ちゃんを登場させて怖がらせて故意に泣かせて、恐怖症を植えつけてしまったことなどで話題になりました。その後Freud以来の天才と呼ばれたB.F. Skinnerが登場し、彼の死である1990年までとかく話題となりました。そのSkinnerが提唱したのが、Reinforcement(強化)を賞罰によって与えることを学説としました。

私は、Behaviorism(行動修正派)のすべてを嫌っているわけではないのですが、そのベースにある心をほぼ無視するような、心の仕組みがすべて同じだと扱う態度には、賛成していません。歯であろうが、耳であろうが、目であろうが、やはり生まれもってどこかの機能が欠落していたり、多かったりと生まれてくることで、日々の生活の中で「均一化」して扱うことはできないと信じているからです。私の場合は、脳内ケミカル分泌が正常値よりも多いものがあり、やはり一般的な平均値スタンダードで暮らしてこられたことは稀でした。それよりも多すぎたり、ひどく欠落している行動が目立ったり、動機付けに対しても同様だったので、特に、体罰を与えられても、意地になってテコでも言うことを聞かない子どもだったのです。当然、アイスクリームやチョコレートも好きではなく、そんなものは賞にもならず・・・。

なので、法による外的強制力に効力があるなどとは、まったく信じておらず、死刑制度がある国のほうが殺人事件の件数そのものは多いのだということも納得しています。

では、なぜ、人は人とうまくやっていきたいと望むのか?安定した社会を望むのか?という観点は、もう少し哲学的になります。動機は人によってさまざまでしょう。が、縮図になっているものでは、自分が時間や情熱(やお金も含むかな)を掛けたものに対しての期待度を測るものはあります。いっしょに遊んだ時間と質が集中しており濃いものであれば、なかよしの友だちであり、知り合い程度ではない、というのはこういうところから出ています。孤独では社会動物が生きていけないのは、心理学ではなく自然の摂理の延長として当然のことで、傘1本をひとりの人がゼロから完成品までそれぞれで作るよりは、傘を作る人は作る人、他の人は他の仕事をすることで、世界的分業をしながら社会は成り立っています。それをスムーズに行うためにも、人は人とうまくやっていきたいと望み、他にもピラミッドのベースにある欲は充たされていくと、どんどん上の高度な欲へと上します。なので、倫理観や美徳についてもその欲求の向いている方向により、どんどん洗練されていくことになります。が、便利になった世の中では、人付き合いをしっかり指摘し、段階を踏むことも少なくなり、危機感もなく、学習したいと思うこともなく、自分が何者なのかを追求することもなく、いきなりただひたすら自己実現をしたい人は増えているような気がしなくもないですが・・・。

(MaslowのNeeds参照;http://park16.wakwak.com/~html-css/accessup/maslow.html このピラミッドはわかりやすい)

結局、この立場を曖昧に都合よく取ることで(3つの善悪判断の基準を自分がおつきあいする人々の相互理解のもとで得る方法)、世の中はさらに複雑になっているのかもしれません。

が、私は多数決の真ん中にいないことが多いので、正しい!正義!モラル!を押し付けられるのは、どうしても嫌なんだよなぁ。なので、こうして日々、書いたり、話したり、と、骨が折れるほうの方法を採用しているのです。たまに端折ることはありますが、「そんなの常識でしょ」というボキャブラリーは私にはありません。

これが強いて言えば私の美徳なのか?(爆) 今週は長い1週間でした。仕事たいへんだったよぉぉぉ。美徳をもうちょっと考えてみますが、今日は自分の美徳だけで終わったので、タイトル変更しました(笑)。