07/16/2006 にアップした文章です

 

邂逅:思いがけなく出会うこと。めぐりあい。

断言できてしまうのですが、この語彙は、私は教科書から学んだものです。川端康成が自殺する前に、ハワイの講演で使ったものの中の「一期一会」というお題の中に入っていたものだと、教科書にはありました。国語も捨てたもんじゃーない。光村図書ありがとう♪小学生でした。

川端康成が自殺したのは、1972年ですので、私はまだ小学生で、その才能や、自殺のマグニチュードの大きさをまったくのところよくわかっておらず、彼の『伊豆の踊り子』を読んだのは、自殺がきっかけでした。父があれがイチバン易しいと思ったからなのか、映画があったからいずれ役に立つと思ったからなのか・・・。その後、三島由紀夫についても父に講釈を垂れられてしまった、という記憶までくっついてきます。

が、この邂逅という語彙にはとても驚いたわけです。私の最初の『運命 vs 決断』を考えさせられたきっかけになった語彙なのです。父と母の元に生まれ、弟ができ、叔父や叔母に囲まれ、小学校に通い、友だちと遊び、先生たちに学ぶことは、Predestined(定められたもの)と思い込んでいたわけで、私にはチョイスなどないものだと、それが当たり前のことなのだ、となぜか思い込んでいたわけです。近所ではひとりだけが、小学校も国立にバスと電車で通っており、それについては「まこちゃんのお父さんとお母さんがそうさせたんだよ」と聞いていたので、それもまこちゃんが決めたわけじゃないのだ、というのが当たり前の概念だったわけです。我が家は貧乏だったので、「今日は何が食べたい?」と祖母や母が聞いてくれることはまずなく、与えられたおかずを食べるというのがお決まりで、「今日のおかずは何?」というのが私のボキャブラリーでした。

私が女の子色と男の子色に抵抗した傘と雨靴事件も、幼稚園のときに起きたのですが、どうやら傘と雨靴を幼稚園の通園で使うのも「お決まり」「当たり前」のことだったらしいのですが、私は青や緑の男の子色を所望したために、母がカンカンに怒ってしまい、どちらも買ってもらえずじまいで、傘は黄色を適当に母が買い与えたものをしぶしぶ濡れるわけにはいかず使っていました。そのときも、父と母で、「黄色は注意だからいいんだよ。男の子も女の子もないからね」と説得したんだそうです。あーあー、本当に私みたいな子どもだったら、親は本当に困るだろうなぁ。私は親になりませんでしたが(今後、養子を迎えることはあるかもしれませんが、定かではありません)、本当に子どもを持たなくていい面だと思ったりもするわけです。そりゃもちろん、失ったヨロコビも大きいのですが・・・。

そして、この邂逅。思いがけなく出会うこと、期待や予測とは違った出会いという別の種類のものがあることに、やたらと感動したわけです。

あれから30年以上が過ぎて、私はこの邂逅をとても大切にしています。ほぼ9割以上の出会いは、自分の決断から生じているものだということを、大人になって結論づけることになったのは、光村図書と川端康成のおかげです。この出発点があったかなかったかは、私のその後の考え方を大きく左右するものでした。子どもであっても、選ぶことはできる、決断はできる、チョイスはまだ他にある、などという概念を、この言葉により紹介されてしまったわけです。邂逅という語彙が、「偶然や幸運」に対する特別な言葉であり、実際の「会う」は自己選択の範囲にあるのだ、と頭の中で図式化されたわけです。うわーぁ!会わないことだってできるんだ、と思うことは、かなりラクな気分が生じることでした。

たとえば、痴漢。幼稚園と小学校の頃は、私の家の近所は痴漢がけっこう出たのです。気持ちの悪い車や自転車に乗っている男の人には、出会う必要なんかないんだ、と思えることはとても気分がラクになることでした。「決められた通学路を守ること」とは言われていたものの、なおみちゃんのお母さんは、「へんなおじさんやお兄さんがいるなと思ったときだけは、違う道を通ってもいいよ」と言ってくれたので、やはり出会う必要がないこともあるのだというチョイスや通学路を変えてもいいルールがわかるようになったわけです。

そして、どんどんそのチョイスを考えていくに、私の数々の出会いというのは、西さんと出会った例を取っても、それほどな偶然や運命などなく、邂逅でもないわけです。会うべくして会った人々のほうが多い。あー、なんて夢が無いやつなんだろう、とため息つかれても仕方ないんだが・・・(笑)。私が留学しようと思って、北カリフォルニアを選んだことには理由があり、その後の専門学校である航空学校に近いが雰囲気が少し違う地域を選んだこと。西さんの会社が研修と称して西さんをアメリカに送り込んだこと。その英語学校がシリコンバレーの中にあり、会社そのものから激近くはなく、留学の醍醐味や厳しさもわかりながら英語を学ぶ学校を選んだこと。その学生の中での年齢分布。好きな先生のシュミ。週末の遊び方。酒の飲み方。などなど、本当に西さんと私が出会うに、そこに偶然要素はとても少なかったのです。

今、営業で弊社の一押し製品のカタログを作成中なのですが、それにEndorsement(推薦した書き)を載せてくれるプロを探しています。私のチャットでの友人である方に頼んだのですが、私個人もその友人の友人である人とは何度もチャットはしている。が、順番としては、距離感がうんと近い私の友人に頼むのが筋なので、お返事を待っているところなのです。これも邂逅なのか?私が好きな人間とおつきあいをずっと続けていることや、彼が他の人を魅了する部分と私が魅了された部分が重なっていれば、それほどな偶然でもなく、むしろ必然なのではないか?と、夕べ考えていたわけです。

そして、子どもであってもチョイスがあることを!とびっくりマークつきでわかってから、私は選択を積極的にすることを選んできたことを、また実感しています。積極的に、有効性の高い選択をしてこなかったら、私は今頃どうなっていたのだろう?と思うと、少しぞっとする部分もあるのです。調布の深大寺からずっと抜けられず、世界を見ることができず、空を飛ぶこともできず、英語も話すこともなく、心理学にも出会えず、不動産のノウハウもわからず、ネコたちと同居もできず、本を積極的に読むこともなく、人々に会うことがなかったかもしれない、と思うと、その戦慄は大きなものがあります。

邂逅と言えるほどの大きな出会いをせねば、と焦る気持ちはありますが、私はパプアニューギニーに押しかけていくほどの情熱はない・・・。用事をこなすことに忙しく、裸足でビーチを歩いたことなど最近はありません。こんなロマンのある邂逅がいつかあればいいのですが・・・。きっと神様はどこか遠くから見ていることでしょう♪