08/03/2006にアップした文章です。

 

私はこのふたつの「教える」「学ぶ」の構図にどうしても納得がいかないわけです。先生→生徒の矢印方向の流れで教える;生徒→先生の矢印方向の流れで学ぶ;と当てはめていいものではないと思うわけです。

うまく反映するかなぁ・・・・。

先生    →    生徒

教える        学ぶ

先生    ⇔    生徒

教えて学ぶ     学んで教える

まず、文部省ちっくな、ここのところの解釈・基本が間違いであると思うのです。ドキュメンタリーでも「うひー」と幾度か思ったのは、校長先生や学年主任なども交えて、「自分たちが教えている事柄は正しいのだ」という固定的で基本的な信念。「それじゃー、教える立場として本当に謙虚なところがねーじゃねーかよ!」と深夜過ぎにTV画面に向かって悪態をついていたのは私です・・・。けっこう虚しいのではって?いやいや、対面だの建前だのを重んじる体制に向かっては、私はいくつになっても本能に近いテンションで反応してしまうのです。

私がアメリカに渡り、短大に恐る恐る戻って感動したことの大きなひとつの中に(まぁね、大学中退だと思っていたらクビだったという事実発覚もあり、それなりに傷ついてはいたし、英語でどのくらい通用するのか?についても不安はあったんですが)、「学説は必ずしも正しいわけではない。地球上の生命体、特に人類が進化すればするほど、学説は塗り替えられ、新しい発見が教科書に加わり、人々の考え方も変わっていく」と、なぜか英語の先生であるMr. Cane(ケイン)に言われたときには感動しました。それに似たようなことは宗教学・哲学・生物・動物学・化学・人類学の先生にも言われました。のちのちMr. Caneと同じ大学に行くことになるともつゆ知らず、私はひたすら感動していたわけです。そして、「ここで学んだことを(注:教わったことを、とは言わない)さらに強化していくことができる学生であってほしい」と頼まれてしまったわけです。いやー、頼まれた限りは引き受けねば・・・。

これは深く解釈すると、「物事を自分で考えられる人間になってほしい」と頼まれているわけですよ。少なくとも私はそう判断したわけです。誰かがAと言ったからAとそのまま受け取ることをせず、自分の中で物事をしっかり情報処理をする・プロセスする、ことが大切なのだ。さらに、わからないことがあったら調べる方法を少なくとも身につける。図書館の利用の仕方を学ぶクラスは、単位としてはたったの1単位なのですが、本当にアレほど役に立った授業はありませんでした。しかも成績つかないし・・・>可か不可なだけ。ギリシャ語起源辞典だのさまざまな辞書、マイクロフィルムの出し方、体系的に物事を整理することの大切さ、などなど、本当にいいことが身につきました。

私はそのときほど痛感したことはないのです。義務教育で子どもたちに「教える」ことは、最低限の読み書きと計算、この調べ物の方法、そして、いつフツフツと湧き出るかわからない「自主的に勉強がしたくなる時期が来たときのための心の準備」しかないのではないだろうか?と。

私はそのときすでに30歳を過ぎていましたが、そんなことすらわかっておらず、高卒あるいは大学除籍の学歴を恥ずかしがることもなく、ゼロから大学をスタートしたわけです。恥ずかしがる必要などカケラもないのだと、背中を優しく押してもらえた毎日でした。社会学の先生は、「先生ほどいい商売はない」と延々と授業を中断し語ってくれ、数学-科学部長はオフィスに私を呼び出し、アフリカ時代に飲んだ紅茶を出してくれ、娘のサッカーの寄付の仕組みなどを教えてくれました。年齢差別に立ち向かいながら教壇に立っていた、おそらく70歳近かった英語の先生も、私が少しでも興味を示すと本をいくらでも貸してくれました。

そして私は中学校のときの学年主任の先生を思い出したのです。「ABCやイロハニホヘトをカタカナできちんと書けないやつが、テスト内容について心配してる場合じゃないだろう」という話や、コピー機の話、掃除の話などなど、私は少なくとも日本ではひとりの教師に恵まれたのだなぁ、と。正確に言えば、私のほうが当時ひとりにしか感謝しておらず、もっと感謝すべき教師たちに恵まれていたことを、何年も経ってから知ることになるわけです。ソレもコレも、大人になってから学校に戻ったことに起因するわけです。

ところで、今回戻ってきてから驚いたことは、私の尊敬する小松先生がなんと著書を出しておられました。さとみちゃんがバレー部の顧問が大嫌いだった、という話をしてくれたときに、私もついでに中学の先生について検索したわけです。出てきちゃったんですよ・・・。わずかな情報でしたが、他にも講演会の記録などがあって、懐かしかったです。おまけリンク;http://bungeisha.com/search/detail.php?bid=3801

子どもに教わることも山ほどある、いい歳こいた自分については、いつも噛み締めています。大学に戻っての日々は、18歳から24歳くらいの若者に「ねぇ、ちょっとコレが難解なんだけど、説明してくれる?」とお願いしまくっていたような気がします。アイスホッケーも8歳年下のビジネスパートナーに教わりましたし、今もさとみちゃんに日本文化情報をバリバリ聞いているところです。教えてあげられることなど結局私には何もなく、ただただ「披露すること」しかできず、それを自主的に「選択する」かどうかは、受け手の問題なわけです。学習と言えども同じことです。方程式であろうが、漢字であろうが、歴史であろうが、物事の構築論理であろうが、本人の学習の機が熟すのはまちまちです。私は遅かったから、遅い子たちのために言い訳してるんじゃないですから(笑)。本当にさまざまなわけです。「この年齢でコレくらいに到達していなければサバイバルに問題がある」と言い切れるような事項が欠落している子たちがどのくらいいますか?なのに、「教えてやる」わけなのでしょうか・・・・。

それよりも、子どもの時にしかできないさまざまなことを犠牲にせず、外で思いっきり遊んでもらって、自分の仕事をこなしてもらい(自分の靴下をお風呂に入ったときに揉み洗いするとか、家族共用場所の掃除とか、洗濯物たたみとか、買い物など;やらなきゃメシなんか食わせなくていいんだよね・・・)、たくさんの喜怒哀楽をさまざまな経験から得てもらい、勉強なんて最低限以外のことはあとからでもいくらでも間に合うよ・・・。私が生きた証明です♪他にもたくさんそういう生きた証明みたいな大人が、実はたくさんいると思うのです。なのに、なぜに勉強勉強ってうるさいんだろう・・・。

私の母の口癖は;子どもを産んで育てて、私はいっしょに成長して大きくなってきた。

本当にそうだから笑っちゃうんだよね・・・(爆)。でもそれでいいんじゃないのかなぁ。大人や先生だけが教える側だという考え、正しいという考えは、いい加減に捨てましょう。