09/12/2006 にアップした文章です。

 

胸の痛みは薄れるものではなく、PTSDを別件で受けた私はこれについてもまだクラクラめまいを覚え続けています。今日は二日酔いのため、ほぼ仕事をしないで過ごしてしまいました。バイオリズムなのか、私はやはり911が近づいてくるとダメなのです。普段通りに機能しなくなる。忘れることができない。

私はアメリカ人ではありません。「半分アメリカ人だね」などとよく軽口をきかれますが、実際問題としては、アメリカ人ではありません。成人を過ぎてからアメリカに渡った事実はそのまま何をしても変わりませんし、この先どんな努力をしようとも、日本人として生まれ育った事実からは逃げられることはできません。

 

愛国心についてもそうです。西さんは私の愛国心のなさについてたまに指摘しますが、私は天皇家に対する尊敬がないわけでもなければ、右翼はダメだと思っているわけでもなく、左翼が最高だと思っているわけでもないのです。二元論のどちらかのサイドを取らねばならぬことにより起きる、あらゆる状況での不条理が出ることのほうが、サイドを取らないで非国民扱いされることよりも、ずっとうんざりです。

アメリカ人の愛国心は、いろいろな動機の差や温度差があります。が、愛国心というものは私のような人間にもよく伝わってくる。スポーツイベントひとつでも、その歌詞を噛み締めている顔には真剣味があるわけです。私が君が代を歌わねばならなかった気分とはまったく違うのです。その背景には、移民の国に集まり、今までの苦痛から解放してくれた、自由を約束された地への感謝があります。英語ではよく耳にしますが、the promised landを信じる気持ちは、まだまだアメリカ人にはあると思うのです。アメリカンドリームは信じる人々が少なくなったとは言えども、自由に対する感謝はとても深い。

私もそのひとりで、アメリカに住むようになってからの自由はとても心地のいいものでした。なので、日本への愛国心が薄いように他者には感じさせてしまうのかもしれません。西さん同様、日本の前途に不安を覚え、それについて何とかできないのか?と考えた結果が、私が今度、知的財産権を行使し、ビジネス特許を申請する案なのですが、その全貌をここで公開することができるようになれば、私の愛国心は多少理解していただけるかもしれません。

自分がイニシアチブを取って自分の将来や自分のメシの種について模索し、真剣に考えることは、アメリカで身につけたのか?私の場合は違います。日本に居た頃から、日本社会の数々の文化的側面で喘ぎ、アメリカの考え方についておぼろげながらしかわかっていなかったものの、手に職をつけるならば英語を話せてアメリカでパイロットになることだ、と思ったきっかけは、最終的にはよく作用しました。が、そのため、911の背景も理解できるようになってしまい、毎年この日が近づくと、どうも調子が出ません。一種の鬱状態に陥ってしまうわけです。

911についての映画がここのところたくさん出てきました。アメリカのすごいところだと私が個人的に評価している部分には、『記録をきっちり残しておこうとする努力の姿勢』があります。大昔の戦争中であっても、それ専門の人々がしっかり居たことでわかるように、暴露される権力側の圧迫力にもなっています。が、しかし、これを「歴史を持たない国であるがゆえに、そのコンプレックスの裏返しとして歴史を詳細に残しておきたがる」と揶揄する人々もたくさんいます。本当にそうなんでしょうか・・・。本質的なところはそんなところにあるようには、私には思えていません。

ハリウッドの影響力は、私の映画狂いでもわかるように大きなものです。アカデミー賞などは世界で衛星生中継がされるほどです。その映画を通して、高級取りの俳優や監督や配給会社など、映画に携わる人々は、魔の911についてをできるだけ残したいと意欲を燃やしています。ドキュメンタリーが正統だとされる意見もわかりますが、それはアメリカのDiscovery やHistoryチャンネルなどで再三再現されています。たくさんの専門家を招き、いろいろな意見や可能性を探っていますが、いかんせん、教育レベルが違うたくさんの人々に興味を持ってもらい続けるには、映画の効力は大きなものですし、それらのいわゆる教育関連番組を敬遠する人々にもそれらの番組を見てもらえるきっかけになります。さらに、世界中にそれらの番組を輸出するきっかけにもなることでしょう。

私は実を言うと、まだ1本も見ることができていません。数本の映画が出ましたが、まだ見る勇気が出ないのです。ドキュメンタリーも同じくで、実際のところはまだ直視できていません。テロリストのバイオグラフィーやFBIやCIAについての深い理解をもたらず番組は見れているのですが、911を直接描いているTV番組は、かなり意識的に避けています。

911があったあの日、世界中のいろいろなところで、みな自分は何をしていたか、というのはくっきりと憶えているはずだと思うのです。私は家におり、電話を受け、学校に行くのを止めました。1日中ベッドにもぐりこみ、震えながらTVを見ていました。なので、この5年、911には同じ状態になってしまうのです。その震えや嫌悪は未だに減る気配を見せず、よくないことをさらに考えるわけです。

実際に、テロは世界中で納まる様子を呈していません。むしろ、犠牲者は増え、人々が亡くなり、戦争範囲も拡大し、恐怖はさらに増えているような気がしているのです。少なくとも私個人はそうです。また数年以内に大きなテロが起きるかもしれないと、震えているわけです。また誰かが飛行機ごとビルに突っ込む以上のすごいテロを考え付いて、実行まで持っていけてしまうのではないかと、不安で仕方がないわけです。次回は、化学兵器(ガスや毒や細菌など)か核兵器が使われるのではないかと、そしてそれは日本にも及ぶかもしれないではないかと、不安は払拭されません。

目には目を、歯には歯を、なのか?暴力には暴力なのか?私はそもそもそうは考えないやつなので(死刑執行についての反対エッセイなどにあるように)、やはりこの現状は、終わりのないいたちごっこや、「白ヤギさんからお手紙ついた、黒ヤギさんたら読まずに食べた」状態になっているのではないか、と思うわけなのです。

新しく1週間前から読み始めた本は、新しい作者のもので、Vince FlynnのConsent to Killというまさしくテロリズムを題材にしたものです。読み始めてから後悔し、時期を延ばそうと思い、香港でJames Pattersonを買ったのですが、わずか1日で読み終わってしまいました。こうなると、調布の図書館でまとめて東野圭吾を借りてくる手があるのですが、怖いもの見たさが先走り、また開いているところです。が、やはり読み進められない。明日は、東野圭吾の読み終わっていないものをすべて借りてこようと思います。なんてナイーブなんだよ、私・・・・(汗)。

人は最後に自分の人間としての品格がわかるものなのだと言う人がよくいます。西さんもそのひとりです。私はその最後の瞬間がわからないので、いつも品格を保てるようにと注意深くステップを踏もうとしています。他人を助けるために己の命を落とす人もいれば、平然と他人を陥れる人もたくさんいる。が、私だけは後者にはなりたくないと思うのでした。こうしてまた911が過ぎていきます。来年こそはもう少し明るい気持ちになれればいいな、とまた願うのですが、どうしてもまだ世界平和に対する懐疑心は残ったままです。