10/06/2006 00:00:00

器量:(1)物の役に立つ才能・力量。 (2)主に女性について、容貌(ようぼう)。顔立ち。みめ。 (3)主に男性について、その人の面目。価値。

これについてよく考えるのですが、それは誰しも似たり寄ったりだと思うのですが、たいていの人々が留まるのは、自分と自分の周囲の人々についてだけしか判断する材料がないということです。もう少し進むと、あるバロメータを持ち、第一印象から経歴、しぐさや信念が見え隠れする言動などを垣間見ることができるようになり、かなり正確な像を掴むことができるようになります。が、ここで注意したほうがいいのは、「それはすべてではなく、あくまで導入であること」です。が、その導入が安心できるものでなければ、それより奥に入りこむこともないし、宝の森を歩く旅を始める前に放棄していることがあるやもしれません。

幼い頃からそうでしたが、私は器量のでっかい人を好みました。地味に見えても容姿がどうでも関係ない。とにかく、器量のでっかいこと。この辞書の意味合いは曖昧です。モノの役に立つ才能・力量ってなんだろう?(爆)しかも、女性は容貌らしいし、男性は面目や価値らしい・・・。違うような気がするなぁ・・・。

つい最近もある方と熱を入れて話したのですが、私の器量の測り具合は「究極的にいつも自我に支配されているかどうか」に尽きます。何事も自分中心に考えている人は、面構えにもゆとりのなさが出ますし、挙動もせせこましい。人に秘密を持ったり、保身に走ったり、ささやかなことを自慢したり、しかもそれを繰り返したりします。どんな職業でも貴賎はないと、私は今でも強く信じていますが、貴賎があるとしたならば、それは職業ではなくて、どのように職業を遂行しているか、です。政治家であれば、公約を守れないことが多い。それでいいのか?約束は約束であろう、と私は思うのです。前のめりになって倒れて守れないとしても、その誠意や努力の多寡はしっかり見ることができるようなオープンネスを持てる人物の器量であるかどうか、と私は思うのです。

そんなときに想うのが宮沢賢治で、彼は実際に見たこともない、恐竜や氷河期の夢をよく見て、それを詩や作品に織り込んだと言います。彼の時代にはネットはなく、すぐに検索して調べられるわけでもなく、資料も手薄で、カラー写真も鳴き声もなかったことでしょう。が、彼の描写はかなり正確なのです。自分だけではなく、時空も行ったり来たりでき、さらに他人や動物を含めたすべての生命体について、なるべく私心だけに寄らず、正確さを追求し、しっかり捉えようとしている心。器量のでかさを想うのです。当然、宮沢賢治だけではありません。人類の英知にはそういう心持のでっかい器量の人々がたくさんいます。市井に埋もれた人間にも、やはり器量のでっかい人々はあまたいるわけです。

最近、森村誠一を読みすぎて、疑心暗鬼に自分を陥れている傾向がありますが(笑)、江原さんの言うところの小我と大我の違いが、私の他人の器量を見る目とかなり合致していることがわかってきました。

小我:自己中心的な愛;自分にだけ執着する心のありよう。自分の利益、自分の快楽だけを中心に考える。「我が身がかわいい」という気持ち。物質的価値観のエゴ。わがまま。

大我:スピリチュアルな愛;自分以外の人のため、世界全体、人類全体のために尽くそうとする心のありよう。真実の愛のこと。見返りを求めず、自分を無にして人のために尽くす「滅私」の心。

当然、自分が倖せではなく、ゆとりがなければ、自分以外の人のため、などということには気が行きません。まずは生命と健康、と胸を張って言える人々が少なくなったのはなぜなのか?と、私のようなシンプルな人間は思うのです。表面や脳細胞の作りは複雑なのですが、根底はとてもシンプルですから(笑)。健康を害してまでも働き、健康貯金を目減りさせて疲労し、悪循環に陥る人々をたくさん見ています。仕事で疲れたと言って、愚痴を言いながら酒を飲み、深酒することは、何のストレス解消にもなっていません。自分の言霊を強めて繰り返し、想っていることをさらに強調して植え付け、その気分のネガティブな高揚によって酒が進み、沈黙の臓器である肝臓を酷使し、さらに脳細胞を休めるための睡眠時間を削る・・・。しかもお金を使っている・・・。家のローンにしても物質的欲求は、さらなる倖せ追求に影を落とします。本当に必要ではないものを、「みんなが持っているから」という理由で購入したり、内面のコンプレックスをごまかしたり隠すために手に入れることで、さらなる悪循環に陥ります。やはり自分が世界で一番大切という領域からまったく出られないでいるわけです。少しゆとりができても、妻や子どもやペットや親友くらいが関の山で、人類や世界や宇宙に関してなど、普段あまり考えない。らっきょうやたまねぎの皮を剥くように、その心の中心を探ると、やはり「まず自分ありき」なのです。

考えることはいい脳の訓練で、自分が老後にアルツハイマーなどの認知症にかからないための普段からできる癖・習慣づけなのですが、その機会を失っていることもわからないまま、疲れ果てて健康貯金を減らしながら身を削っていくわけです。

本当に「まず自分ありき」なのだろうか?というのは、私は8歳くらいから疑っていたことです。汲み汲みと続いてきた歴史を知っていたわけではなく、祖母や叔父や叔母や両親に囲まれ、自分がとんでもなく小さい存在だということを叩き込まれて育ったこともあり、Me-ismなど徹底的に無視されたものです。たまたま長女で初孫に生まれたため、下着のお下がりはありませんでしたが、私は叔母や母の服を修繕したものを着て育ちました。20円の消しゴムではなく、10円の消しゴムでもよかったわけです。物質的なものに恵まれなかった私が、その反動で物質的な欲求を大人になってから増長させたか?そんな時期がありましたが、すぐに疲れてやめてしまいました。ちっとも気持ちのいいことではないのです。いいドレスを持っていてもあまり意味はない。それよりも健康に影響のある靴にお金を掛けたほうがいいと思うようになったのは、10代の終わりです。パンプスもイタリア製を以来履いています。足がでかいってぇのもあるんだけどね(爆)。

器量の小さい人間は、必ずどんな話でも自分の基準で片付けます。そして、自画自賛をしていることに気づけない。第三者について褒めるところを、実際は自分のコネクションや紹介、いかに尽力したか、などについて言及しています。他人のおもしろおかしいオマヌケなところを話題にし、自分がその人と比べていかに賢いかを延々と何度も語る人もいました。TVでもそんな人はたくさんいます。経歴を恥じたり誇ったり、そのバロメータになるのは、学歴や職歴や女性遍歴(女性なら男性遍歴)やどんな武勇伝があるのか、などなど、お金をもらっているホステスでもないのに、延々と聞かされる羽目になるのはうんざりです。主婦や母親や父親でも同じで、その自画自賛の仲介は子どもになります。ほほえましいを通り越すほどのバカ親ぶりにはうんざりすることも多くあります。

そして、不幸なことが起きると必ず、他人のせいにする・・・。自分は悪くないのだ、悪くなかったのだ、と。そして不幸自慢さえするわけです。そんな男を選んだのは自分だということは一切棚にあげ、健康に気遣いをしなかったのは自分だということはけろりと忘れ、問題の根源は他人にあるとするわけです。器量が小さいなぁ、と思える人々は、森村誠一の本の中だけに登場するわけではないし、少しばかりの才能を悪意がないにしろ、自分のためだけに使う人々はとても多い。

では私はどうなのか?少なくとも器量のでっかい人間でいたい、と願う気持ちは絶大です。そうありたいと心がけることも忘れていません。小さいことにウジウジこだわらないので、大雑把に見られています。でもまだまだ修行だ・・・。滅私の気持ちはあっても「どうやってやれば最もいいのか」に辿りつけていないのかもしれません。徹底的な献身ではなく、自助するためのお手伝いが最もいいのですが、それを効果的にするにはどうしたらいいのか・・・。まだまだ行脚は続きます。

そしてもうひとつ;器量のでっかさは生まれ持ったものなのか、後天的要素も大いにあるのか?私は後者をより強く信じたいと思います。